第九話 遼遠の涜神
「風を味方につけられればなぁ」とはララ・サリスにとって狙撃の師である少女が不機嫌な時によく口走った言葉である。
ゴム弾であれ金属弾であれ魔力弾であれ、遠距離から対象物を狙って撃ち抜こうと思ったらまず障害となるのは風向きだ。
最大の敵は自分自身、などと知った風に語るのを師は嫌っていた。
狙撃手にとって最大の敵はまず風であり、次なる敵は重力の影響。三番目に雨が来て四番目に銃の故障が来る。自身の体調不良は五番目にも数えない。
そういった外的要因だけを憎んで、それでも生きていけるだけの実力を師は有していたのだ。
(こんなところをあの人が見たら、きっと不公平だと喚くのでしょうね)
圭介達が着地した浮遊島から五〇〇ケセル(=およそ1km)は離れた位置にあるビルの屋上で、作戦開始時刻を記録するためにアナログ式腕時計を確認しつつララは昔日を追想していた。
死を隣人としながら心身ともに追い込まれてばかりいたあの頃が、平和とまでは言わないまでも恵まれている今となっては懐かしい。
ララには親と呼べる人物がいなかった。
温かい食事や柔らかなベッドといったものを用意してくれるはずの家族は、六十年ほど遊んで暮らせそうな金額でララを売ったらしい。事実確認をしたわけではないが少なくとも悪意に関する話をさせれば信用できる相手から聞いた話だ。
別に今更恨んだりもしていない。ただ離別を事実として受け止めただけ。
当時まだ十歳にも満たなかった少女の身柄を買い取ったのは、“大陸洗浄”の渦中にあって人員を求め喘いでいた暗部組織だった。
時代を問わず暗殺者には一定の需要がある。その育成は早ければ早いほど良い。特に女の場合は若さだけでなく幼さも武器となる、とは少し考えれば誰でも理解できる話である。
彼女が属していたのはそんな幼く可愛らしく、相手の油断を誘うのに適した子供達が集められた組織だった。恐らく銃の扱いを教えてくれた少女の生い立ちもろくなものではないのだろう、と今なら確信を得られる。
(思えば酷い環境だったけれど、あそこが私達の家である事に違いはない)
もっとも、その家は既に存在しない。当時力を持っていた闇社会の勢力は、その大半が“大陸洗浄”という名の業火に照らされ焼かれ散らされたからだ。
舞い上がる炎に抵抗する中で一切の油断も容赦も慈悲もなく殺されていった子供もいれば、生き残って被害者扱いを受け施設に預けられた子供もいた。
そして彼女の師は前者であり、彼女自身は後者だったという、ただそれだけの事。
排斥派と呼ばれる他の人々ほど客人を憎悪したわけではない。師を殺されたのは残念だったが「自分達ならそういう事もあるだろう」程度に捉えていたし、組織の大人達が挽き肉になっていく様は映像として新鮮な娯楽ですらあった。
ただ二十歳になる前に迎えるはずだった無様な最期が遠く離れてしまい、戸惑いを覚えたのも一つの事実である。
そんな折、児童養護施設で何をするでもなく過ごしていたところとある人物に優しく声をかけられたのだ。
――よければ力を貸してもらえないかな。客人殺害の依頼をしたいんだ。
生きる上での目的なども特にない。「いいですよ」とララはその依頼を受けた。
そうして自由と不自由をまとめて手に入れた今、彼女は顔の上半分を覆い隠す逆三角形の薄い幕越しに風景を眺める。
墨を溶かした水のように黒く透けたバイザーの名を“ヘカテイア”という。ララ本人が元より有するグリモアーツだ。
薄く暗い視界に複数の二重丸とそれに付随する各種情報が表示された。エリカも使っていた【マッピング】やその他様々な索敵及び解析術式がこの幕の中に仕組まれているのである。
だからこそ、目標となる存在が今どこを移動しているのかもすぐにわかった。
(人数は二人。全員が揃っている、という最悪の事態は回避できたようですね)
ララは隣りに置いていた大振りなキャリーバッグを開くと、中にあった諸々のパーツを取り出し凄まじい速さで正確に組み立てていく。
一分ほどで完成したそれは、小柄な彼女の身長を上回らんとする長大なスナイパーライフル。
腕一本と並べて変わらぬ長さの銃身に組み込まれている文様は、射出される魔力弾を強化・加速するための術式だ。通常であれば実弾が収まる薬室には魔力弾を生成するための術式があって、そこから拳大の弾丸を先の銃身に送る。
引き金を引いた際に生じる反動はアーノルド材を用いたセーフティクッションで受け止めるため、軌道のブレとクッション材のコストを最小限に抑えていた。
また、ララのグリモアーツとの相性を考えてスコープやアイアンサイトの類は取り付けられていない。代わりに万が一近接戦闘に入った場合は鈍器としても使えるように、掴むための取っ手が付属している。
化け物じみた大きさと威力を有する狙撃銃の形を成した悪夢。生半可な建物では壁など容易に砕かれて支柱をへし折られるだろう。
製作者はこの魔動兵器に、ドルトンと名付けたそうだ。
「【解放“ブラスフェミー”】」
言葉に応じてララのうなじがエメラルドグリーンに光り輝く。そこに浮かび上がるシンボルは、広がる双翼の形をしていた。
その光の中から具現化する水晶のような鉱物で構成された翼が、一瞬で周囲の気流にララの魔力を浸透させる。
双翼のグリモアーツ“ブラスフェミー”。やろうと思えば強力な風を起こして家屋すら吹き飛ばせるのだろう。
聞けば元の使い手である“涜神聖典”トム・ペリングは“黄昏の唄”平峯無戒と交戦した際、自身が拠点としていた教会を仲間ごと粉微塵に粉砕しながら街全域に鉄槌のような重い風を撒き散らしたという。
だがララはその魔術適性を理解しながらも、全く異なる使い方をしていた。
周辺の風を制御して無風の状態を作り出し、遠距離射撃において最大の敵となる風を殺す。本来であれば気流操作系統の適性を持つ者であっても長時間の詠唱か、風向きや風速を処理するための高度な演算を要する行為だ。
ララの場合は彼女が有するグリモアーツ“ヘカテイア”がそれら全ての情報処理を担う。視界の隅に表示されるグラフやマップを元にして、魔力弾の軌道をわずかほどにも変えさせない準備を済ませた。
そのあまりにも理想的な条件を彼女の師が見れば、絶対に羨むだろう。
無風となった空間。自由に空中を移動できる双翼。あらゆる計算処理を代用するグリモアーツ。障害物など意味を成さない魔動兵器。
引き金を引けば必ず中る。
翠翼の少女は今、狙撃手として最高の立場を得たのだ。
* * * * * *
しがみついてくるエリカを振り落とさないでいられるよう注意しつつ、その注意が許す限りの最大速度で圭介はビル群の間を飛んでいた。
“アクチュアリティトレイター”での飛行はもうすっかり慣れたものだ。高所だからと恐れて【コンセントレイト】を逐一使っていたのももはや昔の話である。
「都庁ってアレでいいの!?」
「合ってる合ってる! このまままっすぐ進め!」
空気抵抗に耳元の音を流されながら進んでいるせいか、会話をしようと思うと必然互いに声が大きくなる。
圭介が指差して確認した先にあるのは、直立するワインボトルのように途中から細くなっている高層建築物。熱線反射ガラスに覆われたそれは夏空の青に染められてまるで美術品のようだ。
メティス都庁は外側を目視する限り緊急事態に見舞われているわけでもなさそうだった。
寧ろここまででも定期的に圭介とエリカに攻撃をしかけてくる甲虫の群れはその周囲を飛び回るばかりで、安全地帯のようにも見えてしまう。
「なんかこいつら暴れてんだか暴れてないんだかわからねぇな! あたしらンことは襲いに来やがるくせしてよぉ!」
言ってエリカが迫りくる巨大なハンミョウの群れを複数の魔力弾で撃ち抜いた。真っ黒な体液と細長い臓腑を四散させながら絶命する様を確認し、圭介は極力それらを浴びないように移動する。
気分的な問題もあったが何より黒く滴る液体が不気味であった。魔術的な毒物であればどのような影響を受けるかわかったものではない。
「もしかするともうあっちの騒ぎはある程度収まってるのかもしれないね!」
「だとしても直接見てみなけりゃ安心できねえ! このまま突っ切ってくれ!」
「わかった!」
虫に攻撃したことで少し減速した分を取り戻そうとするかのように、圭介は再加速する。
『停止してください』
それとほぼ同時にアズマから停止を求められ、急停止したことにより二人揃って空中でつんのめった。
「おわっぷ」
「ぶへぁっ、んだよどうした!?」
『北部九七六メートル地点にて魔力の収束を検知しました』
「へ?」
「あん? なんて? メートル?」
『第三魔術位階相当防衛術式を展開します』
突如として圭介の頭頂部から離脱したアズマが一日に一度しか使えない結界を展開する。
まだ事情が読めないもののそれなり実戦経験を積んできた二人は、まずその様子を見て下手に動かず周囲に他の危険性が潜んでいないか視線を飛ばして確認した。圭介は念動力の索敵も続けて怪しい動きが無いかを見極める。
今のところアズマが結界を展開している方向には建物しかない。それも向こう側に潜伏する余地がある窓ではなく、税理士事務所の看板が掲げられている状態だ。
しかしアズマが防ごうとするだけの何かがあるのなら、と彼の挙動を信じた。
直後、その判断が正しかったのだと痛感することとなる。
『射出を確に――』
言い終えるより早く、轟音とともに建造物が中心から破砕した。同時に響く鈍い音はアズマの結界が何かを防いだという事実を示唆している。
よほど発生した衝撃が大きかったのか結界を維持しつつもアズマが後方に大きく弾き飛ばされていった。
崩れ落ちていく瓦礫が吐き出す粉塵と一緒くたになって舞い散るのは、エメラルドグリーンの魔力の光。それが意味するところを圭介より先にエリカが理解した。
「魔力砲撃、だあ!? 街中でなんつーもんぶっ放してやがる!」
その言葉で圭介の脳裏に再生される記憶があった。
城壁防衛戦で見た、ケンドリック砲の一撃。奇抜なデザインの蟹型機械を葬り去るその威力はミアの【ホーリーフレイム】を凌駕する。
今撃ち込まれたそれは流石にケンドリック砲と比べれば多少威力も落ちるものの、人を殺す上で無意味なほどに高い殺傷力を有しているのに違いは無い。あんなものを市街地で使うとなればなるほど常識から外れていた。
そしてそれは少なくとも、ここまでに倒してきた甲虫達では絶対に成し得ない攻撃方法だ。
『続けて狙撃される可能性が高いため、即刻移動することを強く推奨します』
「おいおいおいやべぇぞおい!」
「ちょっ、落ち着きなって! ひとまず移動するから!」
『このまま都庁に向かってまっすぐ移動してください。横に動くと次こそ間違いなく当たります』
圭介は急いで都庁に向けて滑空する。
狙撃に詳しくない圭介でも相手がどれほど規格外な存在かは理解できた。
遠く離れた位置からあれほど精密に狙いを定めてきた上に、建造物を破壊した上でアズマを吹き飛ばす威力の攻撃手段を有するなど尋常ではない。遮蔽物越しに狙いを定めてきた時点で隠れる意味も薄いだろう。
そもそもこの時点で逃げ場などあるのだろうか。都庁に入ったところで撃ち抜かれてしまうのではないか。
「おいアズマ。メートルってのぁ何だ、客人の世界の単位か?」
『はい。九七六メートルという距離をこちらの世界の言葉に直すのなら、およそ五〇〇ケセルに相当します』
「アホほど遠いなちくしょう」
背後ではエリカがアズマを肩に止めながら会話を繰り広げていた。その冷静さは頼もしいと同時に嫌な予感を覚えさせる。
「ちょっと、エリカ」
「悪いけどケースケ、ここで降ろしてくれ。あとアズマ借りるわ」
「いやだから何を」
「お前だってわかってんだろ。狙撃手に狙われたまんま都庁に行ったってどうにもならねえ。寧ろ伯母ちゃんや他の人らに迷惑かけちまう」
言っている合間にも、背後の地面に二度目の砲撃が着弾する。抉れた地面からエメラルドグリーンの燐光が立ち上った。
少なくともこの狙撃手を無視して目的地に向かったところで命の危機は去らないだろう。加えて攻撃範囲を見た限り、圭介達二人と一羽に被害を抑えようという意図などなさそうだ。
「んまぁ狙われてんのはどうせケースケなんだろうからあたしだけで都庁行けばいいのかもしれねーけど、今のところダグラスの野郎も姿が見えねえ。ってこたァお前一人が狙撃に気を取られてる間に、背中ぶっ刺されるっつうケースもあるわけだ」
『可能性はありますね』
「だから一人で先に都庁行っててくれ。そもそもケースケおめぇ、遠いところにいる相手をどうこうできないだろ」
「いやだからって……最悪僕だけで狙いを引きつければ、エリカだけでも」
「あのな、客人だからって調子乗んなアホ。これまで何回殺されかけてんだお前」
しがみつくエリカの指が、より強く圭介の体に食い込む。
その言葉は圭介に複雑な感情を呼び起こした。
心配をかけてしまった事実に申し訳なさと嬉しさを同時に覚えるも、互いの生存を考えた場合ここで彼女を置き去りにすることになる。それに強い忌避感が無いはずもない。
そして、圭介が嫌だろうと何だろうとそれが最善手なのだと理性的な部分でわかってもいた。
「狙撃手はあたしが引き受ける。お前はまあ、そうだな。ダグラスを見つけやすいように都庁の屋上にでも行っとけ。……どうせ奴が都庁の中まで突っ込んでこないとも限らねえんだ。いっそここで決着つけちまえよ」
「……それは別に構いやしないけどさ。エリカの方こそ大丈夫なんだろうな」
いかに彼女が双銃を用いての射撃を得意とするとはいえ、適切な距離が違い過ぎる。威力についてはエリカが全力を出せば拮抗できるかもしれないが、消費する魔力を思えばそれはこの局面において危険な賭けにしかならない。
「まぁどうにかするさ。砲撃だろうが何だろうが、モノは魔力弾なんだからよ」
「本当に大丈夫かな」
「そこは安心してろって。んじゃな」
『それではまた』
「あっ、おい!」
エリカは肩にアズマを載せたまま手を離し、“アクチュアリティトレイター”から空中へと飛び出した。そのまま彼女は足元に展開した魔術円から噴射する魔力で着地時の衝撃を緩和し、コンクリートの地面に降り立つ。
「止まってる暇ねーぞ! とっとと行ってくれ!」
「――わぁったよ! あんがとね!」
兎にも角にも信じるしかない。
ずっと前から彼女に対してはそうすると決めていたのだから。
囮として狙撃手に自身の存在を示すかの如く、圭介は“アクチュアリティトレイター”でまっすぐ都庁の屋上を目指した。




