第十六話 赫き肉の怪物
瞳孔はおろか角膜の所在さえわからない真っ白な目を前に、しかし圭介は「見られている」と判断して即座に真横へと跳躍した。
直後、それまで立っていた地面に触手の先端が突き刺さる。タイルに覆われた地面はケーキのように簡単に抉れてしまう。
だがそれだけだ。未知なる存在からの攻撃を目の当たりにして、最初に抱いた感情は恐怖でも焦燥でもなく拍子抜けだった。
ダグラスと比べれば苛烈さが足りず。
ゴードンと比べれば狡猾さが足りず。
ジェリーと比べれば速さが足りない。
その一撃だけを見る分には大した脅威でもなかった。経験を積んだ今の圭介なら、目視してからでも回避はできるだろう。
とはいえそれは開けた屋外で相手の姿を認めているからこそ通る道理である。
地上に這いずり出たそれがこれから蹂躙するであろう市街地には、即座に逃亡も回避もできない状態の民間人が数多く存在する。トラロックの時のように避難誘導する時間は残されていない。
(このままじゃ確実に死人が出る)
事前に組まれていたフェルディナント用の作戦は一旦思考の隅に追いやり、現段階で実行できる最適解を導き出そうと脳を動かす。
まず最初に思いついたのは時間稼ぎだった。
「ふんギギギギギギ!!」
【テレキネシス】による拘束。小さな丘ほどの大きさを持つフレッシュゴーレム相手では大した効果も見込めないものの、動作を遅くする程度はできるだろう。
事実として触手の動きがやや緩慢になり、肉塊はまだ屋敷の敷地外にまで移動できずにいる。
その隙を見逃す騎士団ではない。
『【レイヴンエッジ】!!』
束ねられた声とともに、いくつもの烏を模した颶風が赤黒い球体へと霰よろしく降り注ぐ。第四魔術位階を断続的に受ければ剥き出された肉など無事で済むはずもない。
かくして当然の如くフレッシュゴーレムの頭部は砕かれた。
アルファベットの「U」の字にも似た形状となったそれは、ピクピクと蠢きながら崩れ落ちる。
「何だ、あれは。いやそれよりも、屋敷が……」
一拍の静寂を経て最初に口を開いたのは、屋敷を破壊されたカイルだった。
生活が苦しい中で祖父が残してくれた自宅を失った衝撃たるや相当なものだろう。流石に周囲の騎士達も哀れに思ったのか、屋敷から出てきた怪物の正体を問い質そうなどと思えないようである。
気まずげに迷わせた一同の視線が、砕けた肉塊に向けられる。
だからほとんど全員がその異常事態に気づけた。
「……あ?」
じゅる、と飛散した肉が動く。
それらは欠損した部位へ向かってあるものは蠕動し、あるものは飛び跳ねている。
やがて破壊されたはずの体が元通りの形に戻ってしまった。
「うっそん」
エリカの声は、その場にいた全員の感想を代弁したものだったに違いあるまい。
フレッシュゴーレムは端的に言えば人工的に生成された魔術的な生命体だ。素材に大量の人肉を要する関係で禁忌とされているものの、根源は錬金術によって生み出されるホムンクルスとほぼ同じと言える。
つまり、殺傷による無力化が可能なはずなのだ。
しかし現実として目の前には砕かれた頭部を再生する異形が存在する。死者を用いて作られているというだけでもおぞましいそれは、既に死という概念そのものを冒涜するかのように再び動き出そうとしていた。
第四魔術位階による集中攻撃を笑い飛ばすかのように、またも糸引く虚ろな口がにちゃりと開く。
驚愕と嫌悪感で周囲が硬直する中、圭介だけは念動力の索敵網によってその動きを別の角度から観測できていた。
(見えなかったけど何だありゃ)
目視できないくらい細長い無数の糸。それが肉塊のあちらこちらから伸びて、周囲に散らばった肉を引きずり込んでいたのである。
ゴードンの錬金術に似た動きを見て糸の使い手を探すも、怪しい動きをしている者は索敵圏内にいない。肉塊の中から操作している可能性も考えたが、見た限り糸は全体から万遍なく伸ばされていた。
(複数人が中にいる? いやそれはない、あんだけ脆いんだから見つかるどころか一緒に吹っ飛ばされるリスクが高すぎる)
考える間にもフレッシュゴーレムは動き出す。どこを見ているかもわからない白目をひん剥いて、周囲全体を睨みながら。
「アアアァァァァ……」
圭介が油断した事によって【テレキネシス】の拘束が緩んだため、またも赤黒い触手が蠢いて巨体を引きずろうとする。
聞こえてくる悲鳴や怒号、走り抜けていく足音は恐らく周囲の民家から飛び出した住民達のものだ。
背後の動揺が逆に冷静さを保つ。
まだ手を止めるわけにはいかない。
「あいつ体ん中からアホみたいな数の細い糸出して自分の肉回収してます! 本体っつーか核がどこにあんのかわかんないけど、普通に攻撃するだけじゃ多分駄目そう!」
ひとまず優先すべきは情報の共有である。圭介は大声で周囲の騎士団や仲間達に伝えるだけ伝えた。
だが伝えたところでどうなるものか。第四魔術位階の連射を受けてまだ活動できる存在が、周囲の環境に配慮など一切せず害意を振りまいているのだ。
そして共有を終えれば、次なる仕事はこの場にいる非戦闘員の避難。
「カイルさん、色々あって混乱してるでしょうけど一旦領主邸に逃げてください! もうこれ怪盗がどうとか言ってる場合じゃないですから!」
「……あ、の」
「早く! 頼みますから逃げて!」
圭介はカイルの肩をやや乱暴に突き飛ばした。危機感から対応がやや乱暴になってしまったが、その結果どうにか頷きつつ走り出してくれたので結果的には適切な対応と言えただろう。
彼が放心してしまうのも無理はない。自宅を破壊してグロテスクな肉の化け物が地中から現れる光景など、一生に一度でも見たくないだろう。
しかし流石こういった事態に慣れているのか騎士団の反応は早い。この場でのリーダー格と思しき一人の騎士がカイルの離脱を確認すると、声高らかに指示を飛ばす。
「各自、触手の切除を開始! 次なる攻撃に警戒しながら移動を抑止せよ!」
「お前達は一旦下がれ、アレの正体すらわからない状態で無闇に動かすわけにもいかん」
続いてセシリアが圭介達を下がらせる。
あくまで窃盗を主な活動とする怪盗の相手と異なり、今は生命の危機を伴う状況だ。特に圭介の護衛という名目でこの場にいる彼女が彼の負傷を許容するはずもない。
『魔力反応は全体に万遍なく観測されています。私の方で起源を探るのは不可能と思ってください』
「つくづく謎だなこの化け物。動かしてる奴がどっか別の場所に隠れてるとか?」
「いやはや惜しいがそうではない。一〇〇点満点中五〇点といったところである」
「半分当たってるのかよ。じゃあどっかに他の誰かかあるいは本体に当たる部位があるって考えた方が無難かね。怪しい動きしてる奴は今んとこ見当たらないし」
「ケースケ、そいつフェルディナントだぞ」
「冷静な状況判断、大変結構! しかし今は触手を潰して打開策を講じるまでの時間稼ぎをするべきではないのかね」
「まあそうだね。うっし、下がってるよう言われたけどいっちょ僕も手伝いにうわあああああビビった!! 急になんだコイツ!?」
『その反応の遅さはわざとですか』
気付いた時、圭介の隣りにはいつの間にかフェルディナントが立っていた。あまりにも当然のように話しかけてきたせいで反応が著しく遅れてしまう。
アズマの呆れた声を聞きつつ即座に【テレキネシス】を発動、いつの間にか隣りに立っていたフェルディナントの拘束にかかる。しかし圭介の認識が向かう頃、仮面の奇人は既に背後へと回り込んでいた。
初めて見るフェルディナントの高速移動に、それなり場数を踏んできた圭介も戦慄する。
「フハハハハハ!『急になんだコイツ』と問われたからには応じねばなるまい! そう、吾輩こそ富豪の傲慢から貧者の悲哀まで瞬く間に盗み出す、綺羅の如く輝かしく雲霞の如く奔放無比なる大怪盗! フェルディナント・グルントマンである!!」
「うるさっ、耳元で盛り上がんな!」
「今宵は貴様に用があって出向いたのだよ東郷圭介! すまんが一緒に来てもらうぞ、とうっ」
「あがるぁっ」
足を勢いよく蹴り払われて、思わず転倒しそうになる。不意打ち対策の索敵網も至近距離でのスピード勝負では役に立たない。
そうして傾いた体を、タキシードの黒い袖に覆われた両腕が抱え込んだ。
俗に言うお姫様抱っこである。
「け、ケースケ」
「おっとそこな騎士と同胞、迂闊に動いてくれるな。護衛対象の身柄に不安があるのならば共に案内してやるからついて来るがいい! もちろんそこの愉快な仲間達もだ!」
「コイツ何言い出してんの!? しかも恥ずいわこの体勢!」
「迷って動けない者は残ってアレの世話でもしていろ! 騎士団だけで間に合うと思うがな!」
言ってフェルディナントは走り出す。ただし、常人でも追いつける程度の速度で。
今の状態で全速力を出せば空気抵抗と自身の胴体で圭介が圧迫されるのは想像に難くない。彼なりの気遣いと思われた。
「行くぞお前ら! このままだとケースケが盗まれちまうかもしれねえ!」
「うん! そうなる前にあの人の首刎ねてでも取り返さないとね!」
「ちょっ……あーもう! とりあえず首は刎ねないでよ!」
エリカとユー、少し遅れてミアもその背中を追い始める。彼女らの背後では“フリーリィバンテージ”を手に持ったレオが右往左往していてどうにも落ち着かない。
「えっと、えっと。セシリアさん、俺らは行っても大丈夫なんすかね!?」
「お前は奴を追え! 私は一度民間人の避難を完了させてからでなければ動けん!」
この時ばかりは王城騎士という立場が足枷となってしまう。
確かに圭介の護衛は第一王女から請け負った重要任務だが、市民の安全確保は全ての騎士にとって国から与えられた最優先となる使命だ。
加えて他の騎士の心情やモチベーション、何よりフィオナお抱えの王城騎士という立場も思えば「護衛任務があるから肉塊の相手はそちらだけで済ませろ」などと到底言えたものではない。
わかりました、と言いながら遅れて追いかけるレオの背中を見送って、セシリアは“シルバーソード”を構え直す。
同時に紡ぎ出すのは早口での詠唱。
「【行く当ても定まらないまま 柵を跨いだ羊の群れよ 呆然と眺める私を置き去りに どうか自由を知って欲しい】」
自身の脚部に第六魔術位階【アクセル】を付与し、一気に加速して騎士団が討ち漏らした触手を切断した。フェルディナントほどとはいかないまでも、映像の早送り程度には動ける。
着地と同時に鎧の集団に紛れ込むと、おお、と歓声が上がった。
「どなたかは存じませんがありがとうござ……えっ、貴女まさか王城騎士の!?」
「呆けている暇は無いぞ! 奴が再生する前に逃げ遅れが発生していないか数名で確認しろ!」
その言葉を受けて即座に動く冷静な騎士が数名【マッピング】を展開した。それを内心複雑な思いで眺めながら、肉の這いずり回る音を聴く。
(部位によって切断面の接合に要する時間が異なる、というわけでもないな。アズマの分析結果と照合するなら、やはり本体とでも呼ぶべき臓器なり術式なりは別の場所にあると見るべきか)
フレッシュゴーレムは倫理的問題から禁術指定を受けているがゆえに、あまりそれそのものに関する研究が進められていない。つまりこの場で正しい停止手順を踏むのはまず不可能に近いのだ。
それを理解した上で目の前にいる怪物を完全に殺し切るには、魔力を供給している機構を叩くしかない。
全体を焼却するという強引ながら確実な手段もあると言えばある。
だが、ここはまだ安全確認も完了していない段階の市街地だ。現実的に考えるならこの選択肢は除外する必要があった。
(となればどう足掻いたところで私がここに残って時間を稼ぐのが堅実か。あいつらだけに怪盗の相手させるのは多少不安が残るものの、コイツと比べればまだマシと言える)
ちらり、と白濁した眼球に視線を合わせる。
セシリアの方を見ているのかいないのか判然としないが、既に再生した触手は持ち上げられて今にも振り下ろされようとしていた。
当然、そのまま素直に攻撃を許すつもりなどない。
(またケースケから離れてしまうが、こればかりは諦めよう)
もう小言は聞きたくないのだが、などと思いながら【エアリフト】で根本にまで飛んで“シルバーソード”を振るった。他の騎士達も足代わりとなるそれら触手を斬って駆け回っている。
いかに順調に見えても決定打には程遠く、根本的解決にはならない。
この謎の怪物を倒すために必要となる鍵はこの場から離れた奇妙な風体の男、そしてそれについていった少年少女達が握っていた。




