第一話 まるで、小説のような
事実は小説よりも奇なり。とある英国の詩人が遺した有名な一文である。
はっきり言って現代において通用する言葉ではない。
現実の世界には魔法も超能力も異世界もオーパーツも極めて高度な技術によるVRMMOも存在せず、勇者も魔王も魔法少女も変身ヒーローもエスパー少年もいないのだから。
それでいて邪悪な人間の存在だけは大昔から世界中に数多く実在するというのが大変に憎たらしい。寧ろ道徳倫理を振りかざすようになった人類は、生命体として種の進化に失敗したのではないかと邪推するほどだ。
目の前で大学ノートに書きなぐった自作小説を踏みにじられながら、圭介はそう思った。
「やめてよ! 僕の処女を、僕の処女をォォォォ!」
「誤解を招くような言い方するんじゃねえ!」
「くそっ、おいお前も押さえるの手伝え! こいつ羽交い絞めされてる状況で俺によっかかろうとしてきやがる!」
「この状況で楽しようとすんな! 叫びながら腕を組むな、腹立つから!」
今年から通い始めた高校には絵に描いたようなガラの悪い輩がいて、圭介は不運にも入学式の時点で彼らに目をつけられていた。
気の弱そうな外見、新入生という立場、校歌斉唱の際に盛大に放屁したことでの悪目立ち。
校内でも幅を利かせている勢力が日々ストレス解消のための道具として利用するには実に適した人材。
それが東郷圭介という少年に対して、不良生徒達が抱いた第一印象であった。
「うわああぁぁぁ僕の処女が屈強な男どもに散らされたああああ!」
「違うっつってんだろ! やめろよ、ちょっと今のポジション的にそういう風に見られかねないんだぞ!」
「ご近所さん違いますからね、俺達は健全なチンピラです!」
彼らの最大の誤算は、目を付けた相手の強靭さである。
一年生になって初めの一ヶ月はひたすら暴力を振るい続けた。殴る、蹴る、頭突き、壁に叩きつける、スパナで殴打する、階段から突き落とす、石を投げつける等々。
しかしそれらの効果は薄かったと言える。
圭介は常日頃からテストの点数をごまかすために玄関先で死んだふりをしたり、うっかり父親が隠していた大人向けの書籍を見つけては陰で友人に売りさばいたりする都度、母親から相応の罰を受けていたのだ。
息子相手でも手を緩めない元レディースが繰り出す数多の暴力は無自覚なまま彼に痛みへの耐性を付与していた。
こうなると暴力を振るう側が一番困る。
生半可な手は通用せず、通用するまで続けると行き過ぎて事件となり、彼に関わった側である不良グループの方が社会的に追い詰められることになる。
そのため二ヶ月目に突入したここ最近では直接的な暴力は鳴りを潜めていた。
代わりに弁当のおかずに見境なくウスターソースをかける、下駄箱の中に黒板を引っ掻く音が記録されているUSBを仕込む、ハッカのドロップしか入っていないドロップ缶をプレゼントするなど精神的な嫌がらせが続いた。
暴力以外の嫌がらせについて、彼らの知識と発想は小学校で止まっていた。
今目の前で行われている、いわゆる黒歴史ノートの破壊もその精神攻撃の一環である。
中学卒業と同時に「勉強せずに座りながら稼げる仕事に就きたい」という自堕落な人生目標を掲げた圭介にとって、最も身近で手近な選択肢がライトノベル作家という道だった。
不良らが踏みつけているのは単なるノートではない。
彼の処女作、『俺の幼馴染アイドルが転生したヨシフ・スターリンだった件について』である。『俺ヨシ』という作者本人が考えたであろう略称がタイトルの下に小さく書き足されているのが切ない。
キャラクターのイメージを固めるために描き始めた立ち絵から無駄にイラスト関係の才能を開花させてしまったことで途中から小説ではなく漫画になっていたが、この特定の政治的思想と芸能界の裏事情を絡めた結果おどろおどろしいことになってしまった妄想の垂れ流しも彼の中では小説に分類される。
「意味わかんねー」という中身を読めば不良でなくとも抱くであろう感想を聞きながら、目の前で繰り広げられる蛮行に圭介の怒りと嘆きは臨界点に達するところであった。
「返せよ、僕のテキトーに駄文を垂れ流して萌えイラストに釣られた豚共から印税を巻き上げるための夢へと続く第一歩を返せよおお!」
「るっせえ! いきなり個人事業主で食ってく前に企業勤めして社会を学んでおけボケ!」
「そうだそうだ! そもそも作家一筋で食っていけるほど世の中甘くねぇぞ!」
「つうかライブを通してプロパガンダする中身おっさんのパラノイアアイドルとか気持ち悪いから!」
売れっ子作家への道のりは果てしないのだと暴漢どもが口々に言いたい放題言ってくる。
「ケッ、もうこんなもんで許してやるよ。次からはちったぁシナリオ構成に整合性取れてる小説書くんだな」
「内容も酷かったが誤字脱字が八個くらいあったぞさっきの。あとちょくちょく日本語がおかしい」
「なんで俺らはクソ真面目に一時間も使ってあんな伏線回収もロクにできてねえ駄作読んじまったんだ……」
三々五々に散っていく極めて善良な不良らの背中を見つめてから、圭介はうなだれる。
拾い上げたノートには複数の足跡がついており、文法の間違いや誤字脱字には容赦なく赤鉛筆でチェックが入れられ、気まぐれに描いたグロテスクな一枚絵は発狂したリーダー格の少年によって破り捨てられた。彼は泣いていた。
いつの時代も悪とその被害者は必ず存在し、助けてくれる英雄的な存在は物語の中から出てきてくれない。倒せば世界が平和になる魔王もいない。
予定調和のめでたしめでたしが約束されている物語の世界とは違って、現実は複雑怪奇で面倒だった。
「ちくしょう……歴史上有名な人物をアイドル転生させるのって新しいと思ったんだけどなあ。やるなら日本の偉人使った方が良かったか。新選組とか有名どころに絞ればユニット組めるしイケるかもわかんないぞ」
比べて圭介の精神構造は単純である。
落ち込むべき事態に陥れば落ち込み、しばらくの時間が経過したら立ち直る。
よく言えば前向き、悪く言えば鳥頭。
今回も彼はとっとと落ち込み終えて再度奮起し、新たに駄文を連ねようと帰路についた。
そして、一切の前触れなくズッコケるようにして体が傾いたかと思うと、女子更衣室にいたのだった。
* * * * * *
「言い訳は以上かね」
「やだなあ言い訳だなんて別に僕何も悪いことしてないじゃないですか。よくわからない内に女子更衣室に移動させられてた身としては寧ろ被害者なわけでして」
「スッゲー冷や汗かいてんじゃんアハハハハハハ!」
事の顛末を拙いなりに説明する圭介は今、更衣室から少し離れた位置にある別室にて事情聴取を受けていた。
リノリウムの床に乳白色のカーテン、並ぶ学習机と椅子を見て圭介は今自分がいる場所を学校のような施設と推察した。そう考えれば同年代の少女らが更衣室で着替えていても不自然ではない。
向かい合うは禿頭と寝ぼけているかのような目元が特徴的な好々爺――確か名をヴィンス・アスクウィスと名乗った――である。ただし今はその眉を八の字にして、至極困惑している様子に見えた。
圭介が女子更衣室で最初に会話した少女、エリカは先ほどから彼を『先生』と呼んでいる。
恐らく教職員なのだろう。そう考えるとどことなく、圭介が中学時代によく話していた校長先生に雰囲気が似ていた。
傍らにはとかく騒がしいエリカが立っているが、現状客観的に見て単なる賑やかしにしか見えなかった。恐らく付いてきたのも暇だったからだとか、そんな程度の理由だろうと彼女への考察は放棄する。
「確かに君の境遇には同情しよう。えーっと……」
「あ、僕東郷圭介っていいます」
「ああ、ケースケ君。いやはや、自宅に帰ろうとした矢先に突如女子更衣室に飛ばされた人間の心境など私には想像もできないからね。多少の眼福など霞むほどに唐突だったはずだ」
「いえいえ、ご理解いただけて何よりです。んでここは結局どこなんですかね、僕早く帰って友達……友達? との約束を果たさなきゃいけないんですけど」
一応この状況下において若干の余裕を残していた圭介は、今のところ最も重要なことを尋ねてみた。
もちろん彼が帰ってから実際にやろうとしているのは妄想を書き連ねた駄文の量産だ。右手に持ったカバンの中には未だ真新しい踏み跡がついている大学ノートが入っている。
ついでに新しくオリジナルの邪神のイラストなども描いてみたりしたのだが、これは小説の内容と無関係なのでその辺の掲示板にでも貼り出しておこうと考えていた。
が、そんな圭介の真相を知らないヴィンスは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああ、まあ、何から説明したものか。結論から述べると、君を元いた場所に帰すのは無理だ」
「はいぃ?」
その時の「何言ってんだコイツ」という意思を前面に押し出した圭介の表情を、いかなる言葉で表したものか。
とりあえず数十年の月日を生きてきた教職に就く人間が、軽く鳩尾を殴る程度には癇に障るものであったということだけは確かである。
「ゴフッェァ」
「誤解しないでもらいたいのだが、帰したくないというわけではない。もっと物理的な話だよ」
「初対面相手にフィジカル説教とかないわー……」
実際に見てもらったほうが早いだろう、というヴィンスの言葉と窓付近に促されたこともあって圭介は未だ痛む胸を押さえながら窓の前に立つ。
その流れのままにカーテンを開いた。
「……」
まず目に飛び込んできたのは、複数の島が宙に浮いている空。
小さいものは小規模な公園ほどの面積もないだろうが、大きいものの上には家屋と思しき建築物が鎮座している。
中でもそれらの中央に鎮座する最も大きな島は下部に機械的な施設を組み込まれており、そこに双翼を携えた小型船らしき乗り物が滑空しながら出入りしていた。どうやら空港のような役割を担っているらしい。
続けて眼下に意識を向ける。やはり学校であるからか、校庭にいる複数名の体操服を着た少年少女がランニングしている。
ただし彼らの中には明らかに耳が尖っている者、子供のように背が低い者、果ては山羊のような角と蝙蝠のような翼を生やした少女や二足歩行の狼らしき姿が散見される。そしてそのことに誰も疑問を抱いていない様子で、当たり前のように共にカリキュラムを消化していた。
更にその光景よりやや向こう側へと目をやる。空と校庭の狭間に該当する、校外の街並みの風景。
そこに並ぶ建物は見慣れた近代的な装いだが、道行く人々は鎧を着ていたり大剣を背負っていたりとちょくちょく物々しいファッションが目立つ。ゲームの登場人物を適当に何人か見繕って並べたような状態が、ビルに取り付けられた大画面液晶パネルと極めて不釣り合いに見えた。
総合するに、現実で幾度も見てきた景色とゲーム等でよく見る非現実の景色がごちゃごちゃに交じり合っていた。
「なにこれ」
「ああ、客人はみーんな最初はそう言うらしいな。あたしらからしてみれば日常なんだけど」
いつの間にか隣りに立って窓の外を一緒に眺めていたエリカが耳元で呟く。それに色めくこともできず、圭介は呆けた顔をそのままに窓から離れた。
いつの間にか心臓の鼓動は自覚できるくらいに早まり、大量の汗が衣服の下に滲んでいる。呼吸の荒さも震える手も、彼がこれまでに体験したいかなる緊張状態をも凌駕する域に達していく。
理解不能な出来事に見舞われたことによる、根源的恐怖だった。
「いやホント、なんなんだこれ。わけわかんない。え? 夢?」
「落ち着け、とは言わんよ。これまでに訪れた客人らは例外なく今の君のように混乱の兆候を見せたと聞く。だから今は単純明快な事実のみを提示しよう」
青ざめる圭介に対して、ヴィンスはあくまでも穏やかな声色を崩さずに続ける。
「ここはアガルタ王国の首都メティスにある、アーヴィング国立騎士団学校。我々が日常を過ごす場であり、君にとっての異世界だ」
この日、事実は小説に追いついた。