第十九話 忘れられない痛み
もう十年以上も前になる。
ローレン・クラムが初めて彼女と出会った時、「まるでどこかの国のお姫様みたいに可愛い女の子だなあ」と思わず感心したものだ。
ぱっちりとした瞳に薄く小さな口。銀色の髪は反射する電灯の無機質な光を宝石の輝きに変えていたように思えた。それでいて大人しい性格だったものだから、勝気ながらも容姿にそこまで自信のなかったローレンは感動のあまりその場で抱きついてしまったりもした。
向こうも向こうでローレンの行動力に憧れていたらしく、大人達が思っていた以上の早さで親友と呼べる仲になった。
小学校に入学した時、席が隣り合ったのも大きい。遊ぶ時も食べる時も、大半の時間を二人で過ごしていた。
そして自警団を目指すという共通の夢を一緒に叶えようと、彼女達は長老が師範代を務めるアポミナリア流道場に入る。
当時はまだ揃って半人前もいいところで、グリモアーツにシンボルすら刻まれていない。それでも構わないとばかり、木剣を振るい切磋琢磨を経て互いの腕を確かめ合う日々が続いた。
明確な目標に向かい共に剣の冴えを研ぎ澄ましていく中、ローレンは師範代の娘という立場にかまけて鍛錬を怠ったりなどしていなかった。どころか他の弟子がいなくなってからも、父親に頼んで手合せをしてもらっていた程である。
それでも彼女の親友は食い下がった。否、ともすれば超えられてしまうのではないかという危惧さえ幾度となく抱いただろう。
互いに負けたくないという対抗心、相手が自分に向かっているという喜びを燃料として鍛えに鍛えた。
そうして彼女達は中学生にまで成長し、段位取得試験を迎える。
そこで悲劇が起きた。
「無効! 踏み込み不足!」
「無効! 浅い!」
「無効! 片手が外れているぞ!」
ローレンにとって、それは地獄にも等しい時間。
数合打ち合って彼我の実力差は既にわかっていた。明らかに勝てない相手だと、全身に伝わる衝撃と痛みが教えてくれている。
だというのに審判員は一向に有効を認めない。いくら自分が叩かれても認めてくれない。
それが父による八百長の仕込であると知るのはもうしばらく後の話となる。
どうやら二度三度と打突を無効にされれば諦めるだろうと踏んでいたようだが、見通しが甘かったと言わざるを得まい。
体力はもちろん、気力も削がれて然るべき場面。
ただでさえ自らの努力を踏み躙られている上に、相手は無二の親友である。普通なら泣きそうな表情を浮かべているはずなのだ。
だが、親友――ユーフェミア・パートリッジは楽しげに笑っていた。
何をしても無効打にされてしまうと察した彼女は、段々と通常の試合においても無効となる攻撃を試し始める。
防具の隙間を縫うようにして突き上げた。
明らかに喉や眼球を狙って攻撃してきた。
蹴りや殴打、木剣を用いた投擲も交えた。
それら猛攻が招いた結果は、怪我などと呼べるような生易しいものではない。
その場にいる全員が呆気に取られる中、兄弟子であったバーナードが止めに入らなければローレンの体はどこかしら損壊して永久に機能しなくなっていた。
病院に運ばれ意識を取り戻した時、哀しみだとか恐怖だとかそういったものは不思議と湧いてこなかった。
というよりも感情を呼び起こせるだけの余裕がない。ただしばらくは現実を直視する事もできず、ベッドの上で固定された四肢の治癒を待つ日々が続く。
より効率的な回復魔術の運用を可能とする技術が森の外から入ってきていなければ、完治するまでに数ヶ月を要しただろう。
だがローレンとしては数ヶ月どころではなく、永遠に病室から出たくなかった。
いっそこのまま消えてしまいたい、と思う元気もない。ただただ何もしたくない。
気まずさからかあるいは誰か大人が止めたのか、親友と思っていた少女はお見舞いに来なかった。ローレンの方も会いたいとは到底思えない。事情が何であれ、あの場にいた全員がこの怪我の原因である事に違いはないのだから。
退院した日の夜、お祝いにと設けた酒の席で酔った父親が全て漏らした。八百長試合の仕込から、娘が病院に運ばれる中でその親友に向けて破門を言い渡した事まで全部。
さも義憤に駆られている父親としてかく在るべき、といった態度でどこか誇らしげにさえ見える彼の言い分は途中でガラス瓶が割れる音と共に遮られる事となる。
親に殺意を抱いたのは後にも先にもあの時だけだ。気付けば床の上で丸く縮こまる血塗れの父親を割れた酒瓶で傷つけている自分に気付き、泣きながら自室に走って布団の中に篭った。
段位取得試験などどうでもいい。自警団にだって入れなくても構わない。
ただ、その下らない八百長のせいで親友はああなってしまった。ああいう人物なのだと、気付きたくもないのに気付かされた。
それさえ無ければ試合がどんな結果になろうとも、二人一緒に仲良く自警団で活躍するという未来もあったはずなのに。知らずにいられれば誰もが笑顔でいられたはずなのに。
翌日、父親の前では一言も発さずに朝食を終えて学校に行った。
教室に入って慰めに来る友人達の中に、彼女の姿は見えない。見れば窓際の席で気まずそうに俯いている。
ローレンもどこか気まずくなってしまい、彼女に声をかけるのは躊躇われた。曖昧な笑みを寄ってくる友人達に向けながら授業を受け、結局一言も喋らないまま放課後を迎える。
話したいのに何を話せばいいのかわからない、あの時とは違う意味で地獄のような日常が続いた。破門を言い渡された以上、もう道場で会う事もない。学校では友達がいる手前、話しかけにも行きづらい。
ただ互いを意識しながら何も言えないのが嫌で仕方なくて、結局は一番信用できる兄弟子のバーナードに相談した。
すると、彼はこう言った。
「そういう時にはな、自分で何をしたいのかまずは知らなくちゃならない。ローレンはあいつとどうなりたいんだ?」
「私、は……」
そんなの決まっている。すぐにでも仲直りして、また元通りの親友に戻りたい。
そう告げると、彼はにこりと微笑んだ。
「なら次だ。それを実現するためにどうするか、それはわかるか?」
「八百長したのは、ウチのお父さんだから。まず私が謝らないと」
「うーん、まあそういう考えにもなるか。じゃあそれをするとして」
どことなく長老本人ではなくその娘が謝るという事に違和感を覚えているようだったが、彼はそれ以上深く踏み込まなかった。
「多分、簡単に話しかけられてないだろお前。このタイミングで俺に相談してくるって事はまだ微妙な関係のままなんだろうし」
「………………」
「ああもう、泣きそうになるなって。そういう時はな、期限を決めるんだ」
「き、げん?」
涙に歪む視界の向こう、優しそうな顔が見える。
「そうだな、今が秋も終わろうかって時期だから……今年中に声かけるって決めてみろよ。そう思えばほれ、早くしなくちゃってちょっと急かされてる気分になってくるだろ?」
「今年中に……」
決意一つ。それ以外に何が変化したわけでもない。
ただ兄弟子からもらった助言は、ローレンの中に「声をかけよう」という気持ちを生じさせた。
「ありがとう、先輩。ちょっと元気出たかも!」
「そうかそうか。ま、つっても今年はまだ十三月と十四月が残ってるんだ。焦らずじっくりやれよ」
「うん!」
翌年まで五十日はある。その間、どうにかして話しかけなければならない。
そう思ったものの実際にはなかなか上手くいかなかった。というのも、気遣っているつもりなのか他の友人達が露骨に接触を妨害してくるのだ。
あれだけの大怪我を負わされた方と負わせた方だ。無理もないと理解はするもどうしても焦燥感は生まれてしまう。
それでも唯一それらを掻い潜れたのが年末の恒例行事、鎮魂祭だった。
エルフの森では年末になると失われた魂を弔う祭りが開かれる。この際に弔うのは死者だけに限らず、エルフ達の中に嘗て存在していた以前の性格も含まれるのだ。
そしてまだ小中学生である当時の友人達は祖父母や曾祖父曾祖母の鎮魂に付き合わされる形で、家族と共に過ごす事を半ば強制されるのが通例となっていた。彼ら彼女らは今、冬休みに入っているのもあってほぼ家から出られない状態にある。
一方、今年のローレンには父親が仕組んだ八百長試合というカードがあった。その事実を掲げて不和を誘発し、感情的になった親に「好きにしろ」とでも口走らせれば一人で動ける。
案の定「こんな家族と一日中一緒にいたくない」と言って飛び出す彼女を止める声はしなかった。頑として謝る事だけはしなかった父親も、そろそろ一人娘にここまで嫌われている現状に危機感を抱き始めている頃だろう。ざまあみろ、とローレンは小さく呟いた。
冬だからと必ず雪が降るわけでもない。澄み渡る青空と薄い温もりを宿した陽光に見守られながら、ローレンは以前何度も行った事のあるパートリッジ邸に向かう。
祭りとは言っても外に出て盛り上がる類のものではなく、そこかしこに飾り付けこそすれども基本は自宅で過ごす日だ。行き先を問われる懸念もなく駆け抜ける道にはどこか爽快感すら覚える。
辿り着いた玄関のドアをノックしてしばらくすると、メレディスが出てきた。相も変わらず美しい女性だ。これで性格も大らかで優しいのだから、父親の陰湿な嫌がらせを全力で阻止したのは正解だったと確信した。
「あら、ローレンちゃんじゃない。久しぶりだわあ」
まあ娘が大怪我を負わせた相手に対しここまで態度を変えずにいるのも大概凄まじいが。
ともあれこれでようやく話ができる。これでようやく仲直りができる。
完全に以前のような関係に戻れるという確信があるわけではない。正直なところ笑いながら猛攻を続ける時の彼女は恐ろしかったし、また手合せしようと言われたら何としても断りたいところではあった。
それでも今の話しかけようにも話しかけられない微妙な関係よりは前に進みたい。
それすら叶わないのならせめて、父親の所業について謝りたい。
「あのっ、ユーフェミアいますか? ちょっとお話があって……」
「あら? あの子ったら、話してなかったのかしら」
しかし返ってきたのは困惑の声。空気もどことなく不穏なものに変わった。
何を、と問う前にメレディスは語り始める。
「ユーフェミアなら三日前にメティスに行ったわよ。もうここで自警団にはなれないから、王都で騎士団を目指すんですって」
どの一撃よりもその言葉が重く響いた。
どの怪我よりもその言葉が痛く滲んだ。
もう彼女に会えなくなってしまった。
彼女と繋がらなくなってしまった。
期限はもうそこまで迫ってきている。しかし間に合わない。
エルフの森から王都まではあまりにも遠過ぎた。
そもそも自分が勝手に決めただけの期限にどれほどの意味があったものか。
彼女はもう、一昨日の時点でこの森にはいなかったのだから。
「メティス、に? あの子が、王都に、行った……んですか……」
「ローレンちゃん?」
「ご、ごめんなさい!」
思わず逃げるようにして振り返り、来た時とは真逆の暗い感情に支配されながら元来た道を走り抜ける。
だがここからどうするというのか。あれだけ親に暴言を投げかけた手前、少なくとも今日一日は自宅に戻れない。森の中で唯一の宿泊先となり得るカラオケも今日ばかりは鎮魂祭のせいで開いていない。
結局ローレンは浄水場の陰に座り込んで、地面の冷たさに苛まれる羽目となった。
「……なんで」
酷く疲れていた。何をしているんだろうと自問した。
仲直りしたかっただけだ。また一緒に笑い合いたかっただけだ。もう一度二人で夢を追いかけたかっただけだ。
友達と別れたくなんてなかった。家族と喧嘩なんてしたくなかった。家を出ていくなんて本当は嫌だった。
お腹が空いた。咳と鼻水と涙が出た。
力が入らない。寒くて仕方がない。
どうしてこうも上手くいかない。
「なんで、行っちゃうの」
冬の蒼天を見上げる。澄み渡り突き抜けるような濃い青はいっそ暗い夜空にさえ見えた。
頬を撫でるのは誰かの温かく優しい指ではなく、涙の筋を冷やす風のみ。
嫌でも自覚する。
孤独。
「なんで? ねぇ、なんで…………なんでぇ……」
抱きかかえた両膝で顔を覆う。自分の体だけが涙を拭う。そのままずっと、ずっとそうしていた。
誰かが声をかけてくれるなんて甘い出来事は、現実には起こらなかった。
* * * * * *
「ハァッ、ハァッ……」
暗い廊下を一人で走る。
破壊された床の凹凸で躓き転んでしまいそうで怖い。
罅割れた天井が今にも崩れてきてしまいそうで怖い。
後ろからジェリーが追ってきていないか心配で怖い。
何より怖いのは死ぬ事だった。
見知った女性の上半身が消滅する瞬間の光景。それが今も脳裏から離れてくれない。
「ハァッ……ひっ」
転ばないように見ていた足元に、グランドオーガの死骸が転がっている。
「な、なんだ」
こんなものを恐れてどうする、と避けて通った。
そのせいで嫌なものが視界に入る。
「ぁ……」
先ほどベラの背後で震えていた騎士。
の、下半身。
位置関係から察するに、間違いなく第三魔術位階【雪崩】の余波を受けて死んだのだろうと理解できた。
「う、ぼぇ」
堪らずその場で嘔吐する。それそのもののグロテスクさもあったし、ベラの死に様を強引に想起させられたショックも大きい。
背後から響く戦闘の音。まだ近い。もっと離れなければ。
「おえぇ、え」
そんな理屈だけで足を動かせればどれほど楽だったか。
涙で滲んだ視界の先、裏口に続く扉が見える。そこまでが異様に遠く感じた。
だというのに、それより離れているはずの背後の戦場は異様に近く感じた。
(仲間がいるから……? だから何なの? だから殺し合いも怖くないっての?)
ぐったりと弱り切った足を引きずるようにして前に進む。
同時に、本当に前に進んでいるのか疑問に思えてきた。
(目の前でベラさんが死んだんだよ? 小さい頃、果物もらったりした人じゃん。なんで平気な顔してんの?)
辿り着くまでにかかった数分にも満たない時間を数時間ほどに体感しながら、それでも残った気力でドアノブに手をかける。
指の震えをそこで自覚した。
(おかしいって。逃げた方がいいって。第三魔術位階なんて、相手にしちゃ駄目だって)
吸い込みづらく感じる空気を無理に肺に入れようとして、呼吸が変な音になってしまう。
それももう気にならないくらいに憔悴したローレンは、やっとの思いで裏口から外に出た。
そして、また吐いた。
「おぐぶぇええっ」
眼前に散らばるそれは砕かれた騎士の死体。
視界の左奥に転がる浅黒い肉塊を見るに、恐らくここであの妙に戦い慣れしたグランドオーガ達と騎士団との衝突があったのだろう。一体でも仕留めたのは彼らなりの意地か。
普段は見下していた彼らにもそれぞれの人生があり、生きる理由もあったのだと事ここに至って思い知らされる。
こんなところで思い知りたくなどなかったのに。
「もう、いや」
【解放】済みだった“イノセントピアース”がカードに戻ってぽとりと落ちる。栗皮色のそれには交差する剣のシンボルが刻まれていた。
「夢、叶ったんだよね? 私、色々あったけど、自警団に入って……森を護るために、戦おうって……」
言ってしまえば彼女は本来、戦うのに不向きな性格だ。
自身をあれだけ痛めつけた相手に謝りたいと思い、最低な行いをした父親をそれでも嫌いたくなかったと涙を流せてしまう程には優し過ぎた。
そんな彼女が真逆の性質を持つユーと出会い仲良くなってしまったのは、不幸な事故に他ならなかったのだろう。
「やめてよぉ……こんなの、もうやめて……」
蹲って嘆いたところでこれこそが現実だ。
誰も都合よく助けになど来てくれない。
それを彼女は誰よりも知っていた。
「どうして、こんな目に……なんだよこれ……」
誰も来ないと知っていたからこそ。
「ふざけんな……」
悲しみとは別に生じる感情がある。
「ふざ、けんなよ」
優しくし続けるのもそろそろ限界だった。
これまでに受けた理不尽に怒りが芽生え始める。
知り合いが殺され、友人が殺されそうになっている。
「ふざけんな、ふざっけんな馬鹿、馬っ鹿」
薄汚い八百長試合を仕組んだ父親に、それに従った審判員。
早く仲直りしたかったのに妨害してきた当時のクラスメイト達。
幼馴染の親友を変な方向に鍛えてくれた免許皆伝持ちの指名手配犯。
誰よりも、自分を置いていったユーフェミア・パートリッジとかいう女。
「ばぁぁぁぁぁああああっっっっかやろおおおおおおおお!!」
渾身の怒鳴り声は背後から撃ち上がった第三魔術位階の轟音にかき消された。
それすら今のローレンにとっては気に食わない。とりあえずやったのはジェリーだろうから一発くらいは何かしら魔術をぶち込もうと心に決める。
「【解放“イノセントピアース”】!」
レイピアのグリモアーツ“イノセントピアース”を手に、泣いて吐きながら逃げてきた通路に振り返った。
目元の涙と口元の胃液を袖で乱暴に拭き取り、先を見る。あの客人の念動力でいよいよボロボロになった避難用スペースで、親友の変貌に関わっていると思しき指名手配犯の姿がちらりと見えた。
「あンのクソ殺人鬼がァ、この命に換えてでもぶっ殺す!」
今の彼女を突き動かしているのは、度重なる理不尽によって暴走状態に陥った感情の爆発だ。
これまでの人生で溜め込んできた鬱憤が、清算されずに蓄積されてきたストレスが、四肢に宿って疲労を無視した動きを実現している。
とどのつまり世間一般において、それはヤケクソと呼ばれるものであった。




