第九話 兇刃
ビーレフェルト大陸に存在する一部の山間部にはヨフケムシという虫が群生している。
日付が変わるかどうかという時間帯から活動を始め、オスは甲高い口笛のような鳴き声でメスに居場所をアピールする事で交尾の準備をするのだ。
生態そのものは虫の中でも珍しいものではないが、その鳴き声というのが意外と大きい。それこそ人間の口笛に匹敵するほどの音量となるため、人里付近に生息しているものはほとんどが駆除されてしまった。
その鳴き声で騒がしくすらある森の暗闇を、エルフの森自警団に属する数名の若い団員が歩いている。
ユーも使っていた広域索敵用の魔術【漣】を各々が四方に延ばし、件の魔術円の主を探し回るこの巡回業務は現時点で開始から六時間が経過していた。
「……南方急な傾斜あり、気配なし」
「西方も気配なし」
「北方、気配……ありましたが猿でした、失礼」
三方向を索敵する団員がそれぞれ定期的な報告を入れる。無駄な会話を省いて集中する、彼らにとってはいつものやり方であった。
ただこの時、東側を索敵しているエルフの様子がそこに至るまでと異なる色合いを帯びる。
「東方、何か大きな死体を発見。これは……感触的に、グランドオーガか?」
「何?」
グランドオーガ。危険な中型モンスターの代表例と言われるオーガ種の中でも、鎧の素材にさえ使われるという分厚い皮膚を有した非常に強力な相手だ。
昨今のビーレフェルトでは居住領域付近での中型モンスター発見率が低下傾向にあり、田舎と呼んで差し支えないエルフの森でもグランドオーガの存在は珍しいものだった。
それが、死んでいる。
「念のため様子を見に行くぞ。各自、四方への警戒は維持しろ」
「「「了解」」」
四人が東側に向かってしばらく進むと、開けた空間に出る。木々も石もどかされたそれは大昔からエルフの森にのみ伝わる、狩人専用の休憩所だった。
休憩所とはいえ住んでいるわけでもない森の一部に余計なものを置きたがらなかった先祖達の意向も汲んで、ただ広いだけの何もないスペースとなっている。
その中心で山犬と思しき獣の群れが何かを夢中になって貪っていた。
「あれが……」
「黒い足が見えますね。やはりグランドオーガで間違いなさそう、ですが」
赤茶けた肌を持つオーガと異なり、グランドオーガは黒い肌が特徴的である。過去の分析結果から皮膚に炭素を蓄積させる事で強度を増しているという事実が発覚しているものの、この場にその知識を有している者はいない。
しかし何はともあれ東方の索敵を担当していたエルフの予測は命中していたと言えよう。触感で形状のみならず硬さまで読み取れる、【漣】という魔術の良さが発揮された結果でもあった。
それはそれとして解せない部分が三つある。
まず、グランドオーガの死体に獣が群がっているという点。
刀剣はもちろん生半可なグリモアーツですら防ぎきるような、頑強な皮膚を持ったモンスターの死体である。死んで柔らかくなるわけでもなし、その死体を獣が貪っているというのは即ち傷口が存在するという事をも意味していた。
つまり死因は病や老衰などではない。この怪物を殺した何かが、森のどこかにいる。
「なあ、あれって右腕があるはずの部分だよな?」
「そうだけど……犬どもが食い漁ってる部分には骨もねえぞ」
次に違和感を覚えるのは、獣が群がっている場所。
腹部や胸元に群がっているのは柔らかい臓物を率先して食っているのだろう。しかしそれとは別に、右腕の付け根辺りにも何匹かが口を押し付けていた。
断面が見えないため捥げたのか切り落とされたのかはわからないが、そこから先にあるべき腕は影も形もない。巨大な獣に食いちぎられたかのようである。
そして三つ目。
死体と群がる犬達から少し離れた位置にある、円形に焼け焦げた地面。
たき火の痕跡だった。
「誰かがここにいて、グランドオーガを倒したってのか?」
「もし通りすがりの冒険者などがここにいたとするなら、まあ片腕だけが無いのもわかりますね。解体技術を持たない集まりの場合、一部位だけを持ち帰る事もままあるそうですから」
「……いや、その判断はちょっと微妙だろう」
苦言を呈したのは西方の索敵を担当していたエルフ。
彼は死体とたき火の痕跡を交互に指差し、自身の意見を述べる。
「まずこの季節、それもサンダーバードが降下してくる程度には曇天が続いた高温多湿環境の中で死体が腐っていないのがおかしい。今現在もこうして山犬どもが食らいついている事からも推測できるが、恐らくあの死体は新鮮な状態だ」
「言われてみれば、確かに……」
「それにたき火の焦げ跡がきっちり円形に残ってやがる。昼からここらに吹いてた風の原因がサンダーバードによるものだとしたら、ある程度吹き飛んで散らばってなきゃおかしい。つまりたき火を消したのもあのグランドオーガが死んだのも、今日の昼以降。もっと言えば数時間も経ってないだろう」
「死んだのもたき火の痕跡も最近のものだってのはわかりましたけど。じゃあ何がどうなって冒険者じゃない可能性に繋がるってんです?」
最初に冒険者の可能性を提案した若者が疑問を呈すと、西方担当の男が辺りを見回してから静かに言った。
「冒険者の可能性はまだ残ってるが、それ以外の最悪な状況を考えとけって話さ。今目の前にあるもんが並んだのは今日の昼以降。となると可能性が高いのは通りすがりの冒険者よりも雲に魔術円仕込んでた奴の方だろう」
「それって……」
「俺らの森にイタズラしかけた誰かが、この近くにまだいるってこった」
吐き捨てるように言った、瞬間。
四人の索敵網である【漣】が全て霧散した。
「っ……!」
「何だ!? 何が起きた!!」
困惑する一同。
その動揺する声に紛れて、
「ぐぇっ」
短い断末魔が聞こえた。
「ッ二人とも、散れぇ!」
声を轟かせたのは南方の索敵を担当していた、この中では一番年長のエルフ。誰が死んだかもわからず、それでもまだ二人は残っているだろうと判断して咄嗟に飛ばした指示だった。
何が起こったのか、詳しい事はわからない。仲間が死んだという事実一つだけが確信に等しい予測として胸元を侵食する。
まず先ほど発生した四方向に延ばされた【漣】が霧散するという事態は、起こり得ないものではない。
より高密度、広範囲に別の索敵魔術が広げられれば波の勢いに負けて弱い方が蹴散らされる。そうして起きる現象は言ってしまえば純粋な力負けだ。
そして彼らの索敵を撥ね退けたのもまた別の誰かによる【漣】なのだと、全員がこれまでの経験から察していた。
下がって、つい数秒前まで自分達が立っていた場所を確認する。
そこにはたった今この瞬間までいなかったはずの人物が立っていた。
「あぁん? オイオイちょっとお花摘みに言ってる間に犬が来ちまってんじゃないのさ、参ったもんだねぇ」
山火事の如く赤黒いばさら髪を腰まで伸ばして遊ばせるエルフの女性。
外見年齢はまだ三十にならない程度か。種族がエルフである事を考慮するなら、大体の年齢は百歳を超えている程度だろう。
首から下を包む焦げ茶色の革鎧は、ムカデかワームから獲れる素材を加工して作ったもの。その在りようは女性的な魅力よりも防御力の高さを主張していた。
何より目につくのは、右手に握る特殊な形状の刀剣型グリモアーツ。
ショーテルと呼ばれるそれは平仮名の「ち」にも似て極端に歪曲しており、両刃の部分は金属ではなく薄紫色の鉱石で構成されているように見える。そして全体の刀身はヒグマの胴すら容易に切断できそうなまでに巨大だった。
「せぇっかくご馳走見つけたと思って血抜きも済ませてきたってのに、何だい全く。やっぱ山ん中はロクなもんじゃないね」
言いつつ女は左手に握る骨、その先端に残されている肉に齧りつく。
彼女が頬張ったそれは恐らくグランドオーガの肉だろう。骨の太さは失われた右腕の一部に間違いあるまい。
「……まさ、か」
もはや彼女が放つ殺気を受けて四散していく山犬達にも、彼女が放り捨てた太い骨にも、彼女の足元に転がる北方の索敵を担当していた仲間の生首にすら意識が届かない。
ただただ絶望だけが、彼女の姿と一緒に心に焼きつけられた。
「何故……何故、あんたがこんなところに……」
「……ん? おーおーよく見りゃリーコックんとこの坊やじゃないか。随分と大きく育ったもんだねえ」
彼女は言いつつ右腕を振るい、グリモアーツ――“ウィールドセイバー”に付着した血液を払う。
その動作だけで、先の一撃から運悪く生き残ってしまった三人は一気に後ずさった。
「しかも残りの二人はブラドルとロジャーズんちのガキだろ? そんでこっちの首落としちまった奴は鼻持ちならないお金持ち、アトリー家のご子息ってか! ハハハハ、いやあアタイも結構忘れずにいるもんだ! 我ながら律儀だねぇ!」
愉快そうに大口を開けて笑いながら僅かほどにも隙を見せない。そんな佇まいを前に、虚勢も交えて南方担当のエルフ――リーコック家の長男坊が震えながら声を絞り出す。
「なんで、あんたがここにいるのか訊いてんだ、ジェリー・ジンデル!」
ジェリー・ジンデル。
アポミナリア一刀術免許皆伝を持ちながら、二度目の性格変質を経て殺戮衝動に飲み込まれた危険人物である。
彼女は現在アガルタ王国内全域で指名手配されており、その強力無比な戦闘能力から発見しても関わろうとせず騎士団に連絡を入れるようお触れが出されるほどの実力者だ。
はっきり言って三人や四人で相手すべき敵ではない。それを知ってかただ怯えてか、張り上げた声に応じるように残りの二人が森の中へと走り出す。
「【鏃】」
もちろん、ジェリーがそれを見逃すような相手ならとっくの昔に捕縛されている。
無造作に背後へと飛ばされた魔力の矢は、背を向けた二人の内の片方――理屈っぽくも頼りになってくれていた、西方の索敵担当であるロジャーズ家の青年を貫く。当たったのは背中のど真ん中であり、魔力の残滓と共に闇の奥へと飛んでいく彼の心臓が一瞬だけ見えた。
「ゴプッ、うぇっがっ」
「ひっ、ひぃぃいいいい!」
至近距離で仲間が連続して殺されたのが悪かったのか、もう片方が怯えでほんの一瞬歩みを止める。
それでも一瞬だけで済んだのは彼も彼なりに優秀だったからだ。
そして、ジェリーは彼より数段優秀だった。
「ほいっと」
「はぁっ…………ぎゃああああああああ!!」
ボールのように足元に転がっていた生首を後方へ蹴り飛ばす。それは寸分違わず立ち止まってしまった男のこめかみにぶつかり、恐怖から逃走への切り替えを大きく阻害した。
「いい、今は逃げろ! マー……」
「【首刈り狐】」
無慈悲に放たれた魔力の斬撃は、頭と胴を切り離す事で叫び声を強制的に途絶えさせる。残るは最年長の彼一人、逃走経路は他ならぬジェリーによって塞がれている。
この時点で自警団の詰所に戻れる人員は潰えた。
「…………な、なんで」
「あー?」
「なんで、今更戻ってきた!? それもただでさえ忙しいこの時に! どうしてだ!?」
ジェリー・ジンデルの剣の腕はエルフの森居住区なら知らない者などいない。第一居住区から第九居住区まで、彼女の悪名は轟いている。
それで結局逃してしまったものの、一度は森全体の戦力を総動員してあと一歩のところまで追いつめた事もあったのだ。彼女がどこで何をしようと、またこの森に戻ってくる事はあるまいと誰もが楽観視していた。
だというのに、何故目の前に嘗て追い詰めたはずの相手がいるのか。
「それがねぇ。アタイも本当ならもうちょっと北の方でお仕事してるはずだったんだよ。ただね、昔蒔いた種が今どうなってんのか気になってさあ」
「何を言っている!?」
「むかァしここで剣を教えてやった奴が一人いてね。んでそいつ今はこっちに戻ってきてるみたいだから、そろそろ腕試しでもしてやろうかなーと思って期待半分にフラッと立ち寄ってみたのさ」
言っている意味がわからなかった。
仮にそうだとしてもジェリーは顔を見られ次第通報される身分である。一人で行動しているはずなのに、危機感どころか余裕すら漂わせるこの佇まいは何か。
「何だよ、それ……昔住んでた場所で話した事だってある相手を、立て続けに殺しておいて出てくる言葉がそれかよ!?」
「だってさぁ、気にならないかい? 自分が鍛え上げたガキがどこまで仕上がってくれているのか。殺し合うに足る実力くらいはつけててくれてるのか。もしくはクソッタレな連中とつるんで惰弱に育っちゃいないか。……ね、気になるだろ? 気になるはずなんだ、師匠なら弟子の出来栄えが気にならなきゃ嘘なんだ。なあそう思うだろォ?」
彼女は彼女自身にしか理解できそうもない言葉を並べながら、一歩踏み出す。
それだけで広場全体に波紋の如く濃密な殺意が染み渡るのだから恐ろしい。
「ってなわけであんたらは景気づけも兼ねてこの場で大人しく殺されてておくれよ。せっかく昔の愛弟子と感動の再会を果たすんだ、ちょっとくらいシチュエーションってもんを整えておきたくてさ」
「や、めろよせ来るな寄るな近づくな待て来ないでいやだ」
「んーそうさねえ」
言いつつ右手を真横に振り抜く。
その動作を終えて伸ばした腕を下ろす頃には、両断され宙を舞った男の上半身が地面に落下していた。
「がっ……」
「大体の予定は決めてあるんだ。うん、これで行こう」
三人の斬殺死体を捨てるように放置したまま、ジェリーは木々の狭間に姿を消す。
「ちゃんと帰ってきてくれてるのかねえ。弱くなってたりしたら、まあそんときゃムカつくしテキトーに嬲ってから殺しとけばいいか」
青い月の光も届かない闇の中、呟きだけが取り残されて。
やがてそれも騒々しいヨフケムシの鳴き声に消えた。
「ちゃあんと可愛がる準備をしておくから待ってなよ――ユーフェミア」




