暗闇の中で鮫を見る
何処とも知れぬ夕暮れ時の港町。
その一角、開発を進められている人工島の一つは既に工事を手掛ける者達が去って無人となっている。
他者の視線が存在しないと誰もが承知しているのだろう。そうでなければこんな場所に忍び込んで、抱き合いながら睦言を交わす男女がいるはずもない。
「……キャサリン、本当に大丈夫なのかい? 部長もそろそろ君のスケジュールの空け方に疑問を持ち始めるだろう」
口を離した男の表情には、慈愛と不安が入り混じる。
その怯えすらも愛おしげに眺めながら女、キャサリンは微笑んだ。
「どうせ疑問に思っても何もしやしないわよ。あの人、私を妻じゃなくて家政婦か何かと思ってるんだから。今はあの新聞社の女性記者にお熱。――貴方に夢中な私と同じね、ハリー」
「そっか。もったいない話だなぁ。こんなに美しい女性を放っとくなんて」
それを聞いて男、ハリーは安堵の息を漏らす。
言ってしまえば彼女は夫との夫婦仲をそれほど重要視しておらず、幸運なことに夫も同様だった。互いに外で恋人を作り、それを黙認し合っている時点で家庭の冷え込み具合も察するところである。
ハリーもハリーで不貞の恋に巻き込まれたことを承知しながら、キャサリンを抱きしめて離そうとはしない。
彼らの出会いと繋がりは歪だったが、そこに生じる愛は確かなものだ。
「いいじゃない、怖いことなんて何もないのよ? 人妻相手なら多少のリスクも欲しかったかもしれないけれどね」
「ハハハ、よしてくれ。危ない橋を渡らずに済んで心底ホッとしてるんだ」
談笑を交わし、沈みゆく夕日の光に照らされながら潮騒の音を聞く。
今この瞬間、世界は二人だけで完結していた。
「キャサリン……」
「ハリー……」
やがてどちらからということもなく、二人の唇が近づいていき――
サーフボードに乗った巨大な鮫が飛んできて、彼らをまとめて飲み込んだ。
* * * * * *
(なんだこれ)
巨大なスクリーンに映されたシュール極まる映像を見て、圭介が絶句する。
背中と臀部に触れるのはすっかり古びて薄くなったクッション。手元にある紙コップの中身は既に溶けた氷で水っぽくなり、本来の味を失っているだろう。
そういえばポップコーンは産地偽装問題が尾を引いてまだ買えないんだったか、と以前聞かされた情報を思い出せる程度には退屈な時間が過ぎてゆく。
場所はマゲラン通り沿いにある映画館。暗い空間は広さの割に観客が少ない。
洗った気配のない不潔なジャージを着ている中年男性。
空いた前列の席に足を乗せて爆睡している金髪の若者。
表情筋を引きつらせつつ出口に何度も目を向ける少女。
そして隣りの席で真顔になっているミア。
合計五名。それ以外の席は全て空席だ。
(やべぇ、これの何が面白いのか全く理解できない。何なら誰も面白がってない)
そもそも圭介がこの場にいる理由は、人付き合いに重きを置きすぎた結果であった。自業自得と言うには少々同情の余地も残る。
何気なく「一日中予定がなくて暇だ」とSNSの共有グループで呟いた結果、ミアから最近放映が始まった映画を一緒に見ないかと持ちかけられたのが始まりだった。
曰く普段から一緒に見に行く人がおらず、感想を共有できないことに一抹の寂しさを感じていたとのこと。映画鑑賞の趣味はないもののそういった彼女の立場を不憫に思った圭介は、そのくらいでよければと彼女の申し出を了承したのだ。
今にして思えばエリカとユーが既読をつけながらも無言を貫いたことに違和感を抱くべきだった。
更に言えば「今日は電源を切って鞄の中にしまっておいて欲しい」と願い出たアズマは、最初から何かを薄々と察していたのだろう。
彼女の趣味がB級映画であることを忘れたわけではない。ただ映画など長くて三時間もしないだろうし、全体で八時間近くある余暇からそのくらいを彼女との付き合いに費やすのも悪くはないと判断したのである。
見通しが甘かったと言わざるを得まい。
暗がりの中で椅子に座り、そのまま物語に没入するという行為はそれだけで精神的な疲労を伴う。映画館から出てきた観客が深く息を吐き出す行為が散見されるのは、相応のエネルギー消費が発生しているからに他ならない。
それも内容が面白ければ充足した疲れとなるのかもしれないが、彼らが見ている『サーファーシャーク』なる映画はあまりにも圭介の趣味嗜好からかけ離れていた。
とある湾岸地域を舞台とするこの作品は、体裁としてはパニックホラーに分類されるらしい。
海で鮫に食い殺されたサーファーの怨念が食い殺した側の鮫に憑りつき、コバンザメよろしく鮫の体にくっつく形でサーフボードとして現実化したのが物語の始まりだ。
この時点で噴飯ものの設定だが、何故か鮫はサーファーの“波乗りをし続けたい”という願望だけをピンポイントに引き継ぐこととなる。結果として鮫は波に乗り、海上でモーターボートに比肩するほどの変態的移動能力を得ながら獲物を狩るという意味がわからない存在へと進化した。
広告に『今回の鮫は、海だ!』というキャッチコピーが書かれていたのを見て、圭介は軽く頭痛を覚えたものだ。
ミアから「ビーレフェルトには地上や空中で活動する鮫も存在する」と聞いた時には更に頭痛が悪化した。
それでもまだ面白くなる可能性はあるだろう、と見始めれば資料映像と思しき空中撮影の連続、冗長な会話での尺稼ぎ、案の定序盤で鮫の餌になる金髪美女。
結局最後は主人公の青年がモタモタとしながら着火した爆弾で鮫を爆破して終わった。
何が恐ろしいかというと、最初に登場してから死ぬまでに鮫の姿が映された回数と映されている時間の総量が極めて少ないところである。
鮫を主題としているのに鮫関連の映像が少ないとは何事か、と圭介はこの世の不条理に怒りを燃やした。
やがて続編を臭わせる幕引きと共に、アガルタ文字のスタッフロールが流れ始めた。解放されたという喜びと駄作に金と時間を使ったという悔しさ、何より虚無感がどっと襲いかかる。
わざわざ劇場まで赴いて金を支払い、じっと座り続けた状態のままつまらない映画を見続けたのは圭介にとって人生初の経験だ。それによって生じる精神的・肉体的疲労はこれまでのクエストや戦闘とは種類が異なる。
「いやー、駄作だったね」
「ホントだよもう!」
何が面白いのか、お粗末な映像作品を見せつけられてもミアはヘラヘラと笑っている。普段はまともな彼女だが、こういうところで感性の違いを思い知った。
「ケースケ君、まだ時間あるでしょ? ついでにそこの喫茶店で感想聞かせてよ」
「愚痴しか出ないぜ多分」
「それでもいいよ。私もあれは辛かったわアハハ」
ならどうして見るのかと思わなくもなかったが、ひとまず喫茶店に向かう。
館内に備え付けられているその店は外からも見える位置関係からか、紺色の壁が急に明るい木肌の色に変わる。おかげで店舗の場所は遠目に見てもわかりやすい。
上映されている作品の関連商品も販売しているらしく、ミアは自然な動作でパンフレットを購入していた。
窓際の席に座ってメニューを読み、店員を呼ぶ。
ミアはアイスティー、圭介はコーラらしき味わいだが名前が異なる飲み物を頼んだ。
「しかし、感想ねぇ……一つどうしても言いたいのがさ、映像ショボくね? ああいうのってそれこそ魔術とかある世界ならどうにかできそうだけど」
「映像関連の魔術には詳しくないから何ともなあ」
「それに唯一盛り上がりそうな終盤のシーン、あそここそもっと長引かせるべきだったでしょ。なんでそこを削ってまで前半の無駄会話を増やしたの。なんでこれから食われる奴らに限ってあんなにベラベラ喋るの」
「ぷふっ、監督に言ってよ」
圭介の恨み節をミアは苦笑しながら受け流す。誘った相手から否定的な意見しか出てこない割に、その表情に陰りはない。
恐らくこうして感想を共有したかったのだろうと、圭介は薄々感じ取っていた。
その感覚は安易な理由とはいえプロのライトノベル作家を目指している彼自身がよく知っている。近所のチンピラを付き合わせてでも読者を得るくらいには、感想を共有する相手に飢えていたのだから。
やがて頼んだ飲み物が運ばれてくる。
よく冷えたそれで喉を潤し、圭介は話の方向を転換することとした。
「ミアはどうだったの?」
「へ? 私?」
「そりゃ僕ばっか語っててもしょうがないでしょ。どうだったあの意味不明な映画。今のところ辛かったとかしか聞いてないからそっちからしてもロクな評価じゃないんだろうけど」
意外そうな顔をしたミアは少しだけ考えてから、うんと頷いた。
「サーファー要素の必要性が無いんじゃないかと思ったかな。俳優さんの演技がたまに棒読みだったりしたけど新人さんや無名の人も多かったみたいだし、あれは監督が悪いよ。脚本は当然として演技指導もしっかりして欲しいね」
「割とガチの批判来たな」
「だってさぁ……鮫映画なんてもう業界じゃ飽和状態なのにさあ……」
「まず僕はその業界を知らないんだけど。え、鮫が飽和状態なの? マジで?」
「あれなら尾びれでサーフボードに乗って波乗りしてくれた方が絵面的にはキマッてたじゃん」
「まあキマッてるね。何らかの薬物が」
これまで触れてこなかった世界の話をされて、圭介は静かに困惑する。
ただ彼女の意見を聞いていく内に、頭ごなしに作品を否定しているわけではないのだとわかった。高く評価できる部分は評価し、問題のある部分については文句を言いつつ改善点やフォローを挟む。
くだらない内容の映画にも真摯に向き合う姿勢は、圭介にとって好ましく映った。
「ケースケ君、一応作家目指してるんでしょ? なら駄作にもある程度詳しくなくちゃ」
「暴論では……?」
仮にそうだとしてサーフボードに寝そべる鮫をどう創作に活かせたものか。圭介としては悩ましい部分である。
談笑を重ねていく内に、外から差し込む光が赤くなり始めた。既に目的の映画は見終えたので、そろそろお開きといったところだろう。
「んじゃ、僕部屋に戻るから。何だかんだこうして感想言い合うのは楽しかったし、今日は誘ってくれてありがとう」
「いやこっちこそ。また機会があれば一緒に見ようよ。来月には『人食い霊園』も上映始まるみたいだし」
「考えとくわ」
絶対に行くまいと心に決めた。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れー。次はアズマも一緒に見ようね」
『そうなるといいですね』
「曖昧な返事された……」
多少残念そうにしながら学生寮の方へと歩いていくミアの背中には哀愁が漂っていた。
彼女と別れてからしばらく歩くと、圭介と同い年くらいの男女数人のグループが並んで歩いているのが目に入る。談笑の声は周りにそのつもりがなくとも話を聞ける程度に大きい。
どうやら彼ら彼女らも圭介と同じ映画を見ていたようだ。
「内陸にある我が国で海での戦いが作られた意味とは……」
「終盤のカーチェイスシーンに見られた一種の王道が……」
「主人公のラブロマンスを描くという観点から見ると……」
濃い会話をしていた。
「…………夢中になれるって素晴らしいな」
『マスターも小説執筆に意欲的な方かと思われますが』
「いやいや僕なんてそんな褒められたもんじゃねえわ。書くの遅いし誤字脱字多いし、話の作りあんま上手くないらしいし。でも、そうだね」
真剣そうに鮫映画についての感想と考察を重ねる彼らを見ながら、ふと呟く。
それはどこか悩ましげで、羨ましげで。
「最低限は評価してもらうためにも、まず書かなきゃなあ」
『それはそうでしょうね』
無為な時間を過ごしたかと後悔もしたし、もう一度見るのはごめんだと今でも思う。
しかしながら僅かにでも収穫はあった。
金を稼ぎたいという身も蓋もない理由から始めた創作活動。それも異世界に来てからはネタを収集するばかりで、一文字も小説と呼べるものを書いていない。
それが常態化する前に意欲を再発させることができたのだ。
これを収穫と呼ばずして何と呼ぶか。
「とりま死んでから異世界転生したナチスのゲッベルスが強化外骨格に身を包んで砂漠でゴリゴリの近接戦闘しまくる『竜の姫騎士と鋼鉄のロマン~元政治家の俺が砂漠化した異世界で最強重戦士として戦うなんて!?~』っていうのを考えてるんだけど、アズマ的にはどう?」
『タイトルが長いです』
「マァジで」
まずはセンスを磨きたいところであった。




