第二十三話 焔
時系列はゴードンが騎士団を壊滅させる数分前にまで遡る。
エルマーはそう遠くない未来の悲劇を予測し、それを回避するために藁にも縋る思いで圭介が閉じ込められている場所まで来ていた。
ホムンクルスが死んだとはいえ今回の相手は隙がない。いかに学年一位の成績を誇り、魔術の知識と技量を叩き込んできたエルマーとて真正面から勝つのは厳しかった。
それに対抗するためにも、相性がどうあれ超大型モンスターを単騎撃破した実績を持つ圭介の存在が不可欠と判断したのである。
彼が冷気を不得手とするのなら自分の炎で寒さを相殺すればいい。悔しいが兄のグリモアーツの件も含めて、自分は後方支援しかできそうにない。
その事実を胸に宿る靄と共に抱えたまま、氷の壁と対峙した。
「ケースケ君なら、あっちの酸素缶が散らばってるところに閉じ込められてるぜ」
レオが手傷を負ったことで【ホットガード】の効果が損なわれ、凍死寸前にまで追いやられていたガイは召喚されたウィル・オ・ウィスプを抱え込みながらそう言っていた。
氷の壁と酸素供給を担う施設に挟まれたこの状況下ではあまりにも条件が悪い。あくまでも物体を動かすことを起源とする念動力魔術では脱出もままならないだろう。
『発火・燃焼系統の魔術に秀でた自分の魔力操作なら』という見込みもあり、エルマーは圭介を救出するために一時戦線を離脱したのだ。
「ケースケ君、ケースケ君。聞こえる?」
「エルマー君? 聞こえるってか、まあうっすら見えてるよ。外どうなってんの?」
声が聞こえるのなら会話は可能である。言いづらい気持ちもあったが、騎士団に死人が出たこと、回復役のレオが負傷して危うい方向に戦局が傾いていることを隠さず伝えた。
パン、という音が壁の向こう側から届く。
「また、人が死んだのか」
圭介が素手で氷の壁を殴った音のようだ。気持ちはわかるが今は彼らの死を悼む暇もない。
『マスター、この状況での負傷は好ましくありません』
「そらそうだけどさぁ……」
「け、ケースケ君、今そこから出すからちょっと待っててねすぐに済ませるからね!」
「わかった。ここからでもちょっとくらいなら【テレキネシス】使えるから、手前側の酸素缶だけどかしとくね。エルマー君の魔術じゃこんなんあっても危険だと思うし」
直後、エルマーの背後で騎士団が持つ剣よりも長く太い酸素缶がふわりと浮き上がった。ただでさえ空気が冷えて念動力が弱体化しているというのに、想定以上に緻密な魔力操作を会得している。
まだ転移して二ヶ月と少ししか経っていない客人が氷の隔壁越しにここまでの芸当を見せるとは思わず、エルマーは暫し呆然としていた。
客人だから、という理屈は主に魔力量の多さを言及する際に用いられる言葉だ。魔力操作の才能に関しては天性のものだろう。
「……エルマー君?」
「あ、ご、ごめん。今この壁溶かすから待っててねなるべく急ぐからね待っててね」
「お、おう。大丈夫、そんな無理に早口で言わなくてもいいよ」
簡単に言ったが、壁として機能するほどの大きさを誇る氷は一瞬で溶けるものではない。事実エルマーの左手に装着されたパームカフの魔道具でさえ、未だ表面に氷の膜を残している状態だ。
他の仲間達が時間を稼いでいる内に人が出入りできるだけの隙間を作る。今エルマーがやるべきことはそれだけだった。
一旦遠ざけたとはいえ酸素缶はまだ氷の向こう側にいくつか存在する。大袈裟な炎を出しては逆に圭介に危険を及ぼす結果となるだろう。
なので“インフェルノホイール”を壁の表層に当て続けて壁自体を脆くする。魔力の総量と速度を考えるなら万遍なく溶かすのではなく、複数の点に熱を集中させてコルク抜きのように穴を開ける準備を進めなければならない。
これもしばらく作業が進んだところで加減を間違えると奥の缶に引火しかねないので、途中から火を消す必要があった。
針に糸を通すが如き精密な作業だったが、逆に言えば針に糸を通すように手慣れた者には容易い。
気付けばエルマーは作業の片手間とばかりに圭介に語りかけていた。
「……け、ケースケ君は、さ」
「ん?」
「どど、これ、訊いちゃ駄目かもだけ、ど。どうして、その、元の世界に、そんな、戻りたい、の?」
それはエルマーにとって、圭介と直接出会ってからずっと不思議に思っていた部分。
転移してから一ヶ月も経過すると大半の客人は帰還を諦める。
明瞭な手段が無いという事実も強いが、同時に以前の暮らしと比べて確実に至便な環境、鍛えなくとも大陸の住人より優れている魔術の力が「帰らなければ」という意識を薄れさせるのだ。
圭介の場合、そういった客人の中でも特に稀有な魔力操作の才能と念動力魔術の適性を持つ。
風の噂曰く第一王女とのコネクションも有しており、それを裏付けるように騎士団の中でも特にエリート揃いと謳われる王城組の騎士が護衛に就いている。社会の仕組みについて勉強してきたエルマーから見ても、あれだけの力を持っているのならその噂を信じていいと思えた。
このままこの世界に身を置いても構わない、と思わせるだけの条件は整っている。
しかし彼は自分が住んでいた場所に戻りたがっているのだ。魔術も王族との繋がりも無い、ただの一般人に成り下がるであろう元の世界に。
兄が死んでからは勉学に逃げ続け、現実を振り払うことに没頭してきたエルマーにはその強さの根源が見えない。
「…………あ、あの、言いたくなければ、いいから」
「いや、別に隠したりするような話でもないよ」
返ってきたのは何も気負わない声。ひとまずは怒らせずに済んだかと内心で胸を撫で下ろす。
「といってもいくつかあって、特別これが一番強いって理由があるわけでもないんだけどね。まず近所のチンピラ共に自作小説の添削させるって約束があるだろ、それから家族を心配させたくないってのもある」
家族、という言葉にエルマーの肩がぴくりと動いた。が、それ以上の反応はしない。
「あとこっちじゃ好きなアーティストもいないし好きなアニメもやってないし好きな声優もいないし、好きなラノベも好きな漫画も読めないし。あとアレだな、こうして排斥派に殺されかけるのも理由にはなるか」
「殺されるかどうかより遊び優先なんだ……」
「そりゃこれまでそんなのとは無縁な人生送ってきたから。今では実感せざるを得ないとこまで来ちゃってるけど。ああ、それと…………」
急に圭介の声色がその質を変える。
何か言いづらいこと、いや口に出すことに苦痛を伴うような話が来ると予感させる声。
「な、何?」
「……………………エルマー君ならいいか。これ、絶対からかわれるから他の人には秘密にしておいて欲しいんだけど。特にエリカは絶対に嬉々としていじる。うん断言するわ。アイツには絶対に知られたくない」
「う、うん。言わない、よ? 大丈夫、だか、ら……」
息を吐く音が漏れる。それはいつも通りとはいえ言葉を詰まらせるエルマーへの僅かな不信感か、あるいは嫌な話を続けることへの忌避感か。
「僕ね、向こうに――」
『お二人とも警戒態勢を整えてください。強い魔力反応が三つ、運動場の方から検知されました』
雑談を切り上げるアズマの忠告に、二人揃って張り詰めた空気を纏うのと同時。
彼らの耳に届いたのは、冷え込んだ空気を引き裂くような破砕音。三つの【レイヴンエッジ】が同時に着弾した音だ。
結果はどうあれ何らかの形で勝負が大きく動いたのだろうと、これまでの経験から圭介は瞬時に推測する。
「急ごうエルマー君。僕も内側から壊せないか色々試してみる」
「わ、わ、わわかった……。でも、無理だけは、しないでね」
「大丈夫大丈夫、よっこらせっと。ふんぐらぁっ!」
コトン、と何か聴こえた気がした。
『マスター、それは流石に無意味かと』
「あーやっぱ酸素缶じゃ罅も入らないかこのクソ氷」
「ケースケ君? け、ケースケ君!? 本当に無理しないでね!? 万一引火したら全員死んじゃうよ!?」
『この壁の厚みから計測するにそちら側から引火する可能性は捨てても構わないでしょう。それと障壁が持つ体積と硬度の関係から酸素缶一本程度では脱出にさほど関係しません』
「いや、缶が壊れて酸素が漏れたりしたら……」
「でもこんな半端な狭さじゃ“アクチュアリティトレイター”もまともに振り回せないしなぁ……。そうだ、いっそ一個くらい酸素缶爆発させてみれば楽に壊せるんじゃないの」
『いいですね』
「よくないよ!? 後ろに酸素供給する施設あるんだから!」
思わず叫んでしまった。相手をしていてくたびれるコンビである。
「まあそれは最後の手段だよ。流石に僕もそんな危険な真似したくないって……」
圭介が氷の壁越しに微笑んだ、その瞬間だった。
――ぷがっ!
短く、わかりやすく、聞き覚えのある声による悲鳴が聞こえた。
「……あ?」
途端、圭介が纏う雰囲気が変わる。
気付けば戦場から聴こえる戦闘の音がすっかり止んでいた。冷たい風が運ぶのは何を言っているのかわからないが何かしらをブツブツと喋るゴードンの声。
そして、
――ぼげぇっ。
続くのはさっきと同じ、聞き慣れた声。
「…………エルマー君」
「う、うん」
「ごめん、やっぱ奥の手使おう」
「えっ、えっ、あの、奥の手って」
「それ、爆発させちゃっていいよ」
戸惑うエルマーの前で先ほど圭介が一度どかした複数の酸素缶が、【テレキネシス】によって一斉に浮き上がる。
「な、何、言ってるの。そんなの、そっち側の缶にも、引火して…………」
「大丈夫。僕もこの施設ごと吹っ飛ばないよう、出せる限りの【サイコキネシス】で防ぐから。だからやって、すぐに」
「で、も……」
「エルマー君」
氷に歪められた像が、ゆらりと動いた。
圭介が頭を下げたのである。
「えっ」
「頼む。このままじゃ守りたいもんも守れない。守れなくても結局殺される。上手く言えないけど、そんなことになるくらいなら、僕は」
死ぬ可能性を前にしているとは思えないほどの冷静な声は、同時に覚悟という名の熱を宿していた。
「僕は、皆を守るために、いくらでも僕を使うよ」
「――――!」
それはきっと、エルマーの根源にもあった思想。
現実逃避の手段に勉学と魔術の研究を選んだのは何故か。
親の反対を振り切ってでも騎士団を目指しているのは何故か。
尊敬する兄を、どうしてあそこまで尊敬していたのか。
まだ恐怖はある。圭介の頼みとはいえ、彼自身がそれで死んでしまっては元も子もない。
故にそこはエルマーの領分だ。発生した炎が彼の魔力を起源とするなら、魔力操作である程度の制御は可能だろう。
否、可能不可能の話ではない。やってみせなければならないのだ。
せっかく前に進む勇気をもらったのだから。
「……爆発の威力を、ある程度抑えようとはしてみる」
「ありがとう」
短い応答の後、エルマーの足元で“インフェルノホイール”が炎を噴き上げ目の前の酸素缶に飛び込む。
車輪が緑色の筒に食い込んだ。
刹那すらない間隙を終えて爆発が起きる。
勝負は一瞬でさえない。前もって制御下に置いた炎を爆発に巻き込み、自身の魔力で爆風を包み込むイメージが肝要となる。
イメージ通りに事が進むか進まないかのギャンブルだ。
「【剣よ 牙に掴まれし者よ 炎の魔物の糧となれ】」
溶かした氷にめり込んだ“インフェルノホイール”が唐紅の刃を四方に向けて伸ばし、そのまま回転を始めた。横に熱が移動し続けることから、そこに含まれているのは壁を貫くという意図ではない。
グリモアーツに炎の刃を纏わせる第五魔術位階【フレイムタン】。
程よく短い詠唱と扱いの容易さから炎の魔術を扱う者に好まれやすいそれは、回転する車輪に取り付けられることで手裏剣のような形態となる。
回転で生じる遠心力によって炎の動きを拡散しようとしているのは、爆発の威力を受け流すため。加えてその勢いがなければ酸素缶は破壊しきれない。二点を満たすための適切な解を瞬時に導き出せたのは彼の頭脳あってのことだろう。
つまり準備自体は整った。後は賭けに勝つだけだ。
「ケースケ君、こっちは終わったよ!」
「よし、エルマー君下がってて!」
言われるまでもなく離脱する。念のため戦場にいるゴードンに背を向けないように方向には気をつけた。
それと共に浮いていた酸素缶が、炎を噴き上げて回り続ける“インフェルノホイール”に突っ込まれる。
寒さのせいで勢いが若干足りないものの、どうにか食いつかれた缶に罅割れが入った。
(来る……!)
瞬間、と呼べる時間すら許さず大爆発が起きた。
一つの酸素缶が爆発することで他の酸素缶にも衝撃が及び、連鎖爆発が生じる。その連鎖速度が人間の観測力を上回っているせいで爆発そのものの回数はたった一度にしか見えない。
(ま、ずい)
生じた爆発の規模はエルマーの予想をやや上回り、その僅かな違いが決定打となった。
膨れ上がる炎は想定していた魔力操作の干渉を一切受け付けない。回転による爆風の受け流しなど距離の短さもあって威力の抑制には不充分だろう。
一度賭けに負ければもうそこまで。圭介の【サイコキネシス】による防御もどれほど期待できるものか。
(ケースケ、君は……。…………?)
爆風の中にいる圭介の安否を願う一方で、エルマーは奇妙な感覚に見舞われた。
爆発に巻き込まれた時点で崩壊するだろうとすっかり諦めた気でいた“インフェルノホイール”が、まだ原型を残して存在している。
魔力で繋がっている本人だからわかることだ。間違いなくエルマーのグリモアーツは、施設の破壊すら危ぶまれる爆発の中で機能し続けていた。
(これって……!)
遠くからはゴードンの笑い声が聞こえる。恐らく圭介が死んだものと断じているのだろう。
しかしエルマーは「圭介が生きている」という一つの確信を得た。
確信して、同時に一度は委縮しかけた闘志を取り戻した。
「何がおかしいんだよ」
予想通りに炎の中から少年が一人、ゆっくりと歩み出る。
自身のグリモアーツを肩にかけるその身には小さな火傷一つもない。
彼が生きているという確信を得た最大の理由は、炎の出所がエルマーのグリモアーツだったことだ。自身の魔力から生じた炎に覚えのない魔力が混在している。
ここでそのような干渉を起こし得る魔力の出所など、圭介以外にいないのだから。
猛る炎は周囲を漂いながら、施設も圭介も傷つけない。
エルマーの魔力は既に散り去った。今この焔は、圭介の制御下に置かれているのだ。
(この人は、炎を動かしたんだ)
土壇場で発現した、東郷圭介の新たな力。
何よりも激しく動く炎を操る念動力魔術。
第四魔術位階【パイロキネシス】。
その力は怒りを代弁するかのように、激しく渦巻いていた。




