第十四話 夜に語らう
――圭介がビーレフェルトに来てから一週間が過ぎた。
「おい新人! ピーチサワー一杯と燻玉ポテサラを六番卓!」
「はーい!」
現在彼はレイチェルの慮りによって取得した戸籍を活用し、アルバイトに従事していた。
騎士団学校からそれなりに離れた立地にある酒場[ハチドリの宝物]は、近代的な建築物が立ち並ぶ王都メティスの中において異色とも言える古き良き旧式木造建築の店舗である。
少し赤みを帯びたオーク材で組まれた外観には最低限の装飾しか誂えられておらず、あまり洒落っ気が見受けられない。
とはいえ法改正や顧客側の要望に伴い改築を重ねた結果として車椅子用の水洗式トイレや防犯カメラ等も充実しているという話も聞いたので、昔の姿そのままというわけでもないのだろう。
「カシスオレンジ一つと生大ジョッキ三つ、それと〆用の麺を三番卓!」
「あいよ!」
圭介本人としては、フィクションの世界に夢見た光景が広がるこの店の雰囲気を好ましく思っていた。
現在この店の中にはエルフがいて、ドワーフがいて、獣人がいる。
聞けば他にもドラゴノイドという二足歩行する対話可能な竜や、外見年齢が極端に幼く敏捷性に富んだクライン、サキュバスやヴァンパイアといった所謂悪魔のような容姿と生態を持つ魔族などの多様な種族も来るという。
日本でそういった創作物に触れていた身としては中々楽しい。
「二番卓にチキンナゲット二皿、八番卓に出汁巻き卵二皿持ってけ!」
「ウェーイ!」
加えて圭介が現状使える唯一の魔術、【テレキネシス】と配膳という業務の相性も悪くない。
調べてみたところ【テレキネシス】は第五魔術位階に属する付与術式で、単純に固形物を動かすだけなら詠唱もせずに行使できる割合優秀な魔術であるということが判明した。
最初こそ石ころ一つを持ち上げ続けるのにも苦戦していた圭介だったが、エリカら三人娘やモンタギューに練習に付き合ってもらう中で少しずつ成長を遂げていた。
具体的には同時に二個の小石を持ち上げる、一定以上の高さまで持ち上げた状態での持続時間を延長させる、ペットボトルを逆さまにしても中の水が落ちないようにするといった内容である。
それら訓練の賜物か、現時点で複数の皿やコップを同時に運ぶことができるようになっていた。
流石に液体の操作はまだ上手くいかないので配膳に用いるなら飲み物をこぼさないように神経を使う必要はあったが、今の彼ならばジョッキやコップの中身を一滴でもこぼすようなことはない。
「五番卓にグレープサワーとオレンジジュースのピッチャー一個ずつ!」
「行くぜえぇぇぇ!!」
「不必要にうるせえ!」
以前より興味のあった異世界の多様な種族を眺めながら魔術の訓練の成果も発揮すると同時に、より精密な魔力の動かし方を体で学びながら賄いで食費も節約できる。
加えて『多めに持たせても運んでくれる』という手数の強みか、厨房の店員らも次々と酒や料理を圭介に運ばせる。
これにより圭介は更なる魔術の練習も兼ねながら労働に勤しむことになり、今では上記の注文を全て一度に受け切って正確に配るという離れ業まで会得していた。
魔術云々のみならず、暗記力と空間把握能力まで向上していく。
「はい運びました! 次何すか!?」
「おめえもうアガリだろ、裏行って賄い食って帰っていいぜ!」
「あざーす!」
壁に備え付けられた時計を見れば夜の二十一時丁度。酔っ払いの声も密度を薄め始める時刻である。
厨房で鍋やらフライパンやらをそれこそ魔術のように見事に使いこなすマスターから焼き飯とサラダを受け取り、店の奥の従業員用スペースに移動する。
休憩室として機能するこの部屋には店内に置かれているものとは異なる安物のテーブルと椅子、業務時間中は使えないがテレビも置かれていた。
賄いをテーブルに置いてから座ると同時、圭介はエプロンを隣りの椅子に引っかけて料理に手を付け始める。節制している彼にとって貴重な栄養源だ。
「いただきます」
レンゲで焼き飯を掬い取り、口へと放り込んでいく。サラダもわしわしとかっ喰らい咀嚼してごくりと飲み込んだ。褒められた作法ではないが咎める人物はここにはいない。
魔力の消費はそれを体感した事のない者が想像するよりくたびれる。
とにかく腹を満たして着替えると、圭介は食器を返却した後プライベートでの荷物入れと化した元の世界の学生鞄にエプロンとユニフォームを入れて外に出た。
以前通っていた高校の制服を再び身に着けるのは、まだ先の話になりそうである。
* * * * * *
建物に囲まれて四角く切り取られた夜空には満月が浮かぶ。
その光に眩まされたかそれとも空が汚れているのか、月以外の星は特に見えない。
否、そもそも頭上にのさばるあの星とて地球から観測される月と同じ天体であるという保障も無いのだ。その事実を認めると共に圭介の口から陰鬱な溜息が吐き出された。
当初は元の世界に帰還したという客人の前例について詳しく調べることで早々に帰還する予定だったのだが、気付けば予定を大幅に超過して滞在してしまっている。
半ば諦めも混じり始めたが、溜息が出ている間はまだ大丈夫だろうと己を鼓舞した。
一週間も暮らせば圭介も街並みをある程度掴めてくるというものだ。
このメティスという王都は、日本で例えるなら東京と同じく帯状都市の様相を呈している。
空中に浮かぶ島々や時折見受けられる空を飛ぶ人の姿が風景に入り混じることで、ようやく異世界にいるのだと実感できた。
やはりこのような非常識な状況下において救いとなるのは周囲の人間関係に恵まれたことと、持ち前の立ち直りの早さにより精神的なダメージが転移して間もない頃より格段に軽くなっていることだろう。
常人であれば異世界に転移してから一週間で居酒屋のアルバイトを笑いながらこなせるようにはなるまい。
[ハチドリの宝物]の裏口は路地裏に繋がっている。出口の扉を開ければ僅かな明かりに照らされた隘路に出て、そこを左に曲がってしばらく道なりに歩けばマゲラン通りという大きな通りに出た。
この通りはメティスのメインストリートであり、雑踏の中には先ほどまで働いていた店内以上にあらゆる種族の姿が垣根なく見受けられる。
その人波の狭間から、見知った人影が一つ。
「やあ、ケースケ君じゃないか」
「ヴィンス先生。また校長に付き合わされてんすか」
圭介らが通う教室の担任教諭、ヴィンス・アスクウィスである。
表情にやや赤みが差していることと近づいて気付く酒臭さから酔っていることが察せられた。
「いや今日は一人だよ。定期的に行きつけの店をいくつか巡っておかないと、定位置を誰かに奪われそうで落ち着かないんだ。そういうみっともない姿は他人に見られたくなくてね」
「へぇー、みっともないとか言いつつ大人な飲み歩き方……な気がする」
「子供さ。居場所が取られるのが怖くて仕方がない。とはいえ、あまり意識し過ぎても酒の味が失せるから考え物だね」
彼の進む方向は圭介と同じなようで、話しながら違和感なく隣りに並んで歩き始める。
「どうだね、こちらに来てもう一週間は経つが。ある程度慣れてきたかな?」
「そうっすね。ぶっちゃけ自分でも引くくらい順応してますよ」
「君の場合は転移してきた場所がよかった。レイチェル校長の辣腕によって通常の客人より少し早めに戸籍を取得できたし、魔術を教わる場として学校という施設は中々に適した場所であると言える。聞けばアガルタ文字の勉強だって順調だそうじゃないか」
それに関しては[ハチドリの宝物]での労働が経験として大きく関わっていた。
居酒屋での仕事というものは瞬時に文字列を捉えて記憶する能力が部分部分で要求される。失敗と対処を繰り返す中で圭介の語彙力は着実に伸びていったのだ。
「ふっふっふ、地頭はいいのですよ。モチベーションがゴミなだけで」
「後ろの一文はともかくとして頭がいいのは素晴らしいことだ。魔術の方はどうだい? 何でも【テレキネシス】という珍しい魔術を使えるとのことだが、どこまで上達したのか興味あるね」
「居酒屋のアルバイトで無双できる程度には。スゲーいっぱいコップとか皿とか持てるようになりました」
「日常生活でも汎用性が高そうだ。羨ましいなあ」
ヴィンスの言葉から、圭介は一つ浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「先生はどんな魔術使えるんですか?」
「え、私かい?」
意外そうな反応が返ってきた。魔術の存在が当たり前の世界では一々他人が使う魔術に興味を持たないものなのか、と密かに世界間ギャップを圭介が抱いていると、
「私は簡単な身体強化だけさ。加齢と共に筋力の衰えを感じてねぇ。若い頃のように動くためにちょっとしたインチキを覚えた……という程度だよ」
「なんだかごめんなさいね」
訊いた方が申し訳なくなるくらいに世知辛い事情が打ち明けられた。
同時に老人の大半が大人しい世界に生きてきた圭介としては、こちら側の世界での老人介護事情がどうなっているのかも気になるところである。
ある意味で介護を必要としない老人が多いということになるのかもしれないが、その分だけ暴行事件等が増えるのではないかという懸念も抱いた。
「しっかし、魔術って色々使えるんですね」
「そうだね。生活のちょっとした助けにもなるし、自分以外の誰かを助ける力にもなり得る。……そして、もちろん犯罪にも」
気まずさから話題を逸らしたにも拘らず、心中の不安を突かれたような心持ちである。
賑やかな大通りから脇に逸れる。道路と道路の中継を果たす遊歩道は石畳に彩られ、何を象ったかも判然としない鉄製のオブジェがベンチの置かれたやや広い空間で、頼りなさげな街灯の明かりを鈍く反射していた。
中途半端な明るさが夜闇を引き立てることに一つの妙を感じつつ、圭介は無言を貫いてヴィンスに話の続きを促す。
「君も既に知っているだろう。六年前の大戦、“大陸洗浄”の終息を切っ掛けとして多くの犯罪組織や悪徳な権力者が摘発された。あるいは、蔑ろにしてきた客人達からの血塗れの報復を恐れて自ら名乗り出た者もいたかもしれない。それだけ多くの闇をこの大陸は抱えていたんだ」
語るヴィンスの表情は険しい。それは一人の大人として、当時の一部始終を知るが故か。
「でも全てが好転したわけじゃない。戦いが終わって二年後、山賊行為に及んでいたとある男性は“大陸洗浄”によって仕事を失ってしまった元大企業幹部だったし、長い戦いを通して快楽殺人に目覚めてしまった客人もいた。そしてそのどちらもが騎士団か自警団、あるいは冒険者の手によって討伐されている。……要は殺されたのさ」
どちらも戦いに巻き込まれ、どちらも戦いに狂わされた。
この世界においてはたった六年前の話である。
「かわいそうとは思わないよ。殺された犯罪者達も歯車が狂っていたのは最初からだったのかもしれないのだから。それでも客人の持つ力は、君には申し訳ないが危険だ」
言って、ヴィンスは懐に手を伸ばした。
きっと無意識での動きだろう。そしてきっと指でなぞるポケットの中には、カードの形でグリモアーツが収納されているのだ。
「“黒き酒杯”ブライアン・マクナマラ、“鉛の池”クェンティン・ボット、そして“涜神聖典”トム・ペリング。歴史上に数々の英雄譚を紡ぎ出したアガルタ王国の国王直轄騎士団[銀翼]ですら手こずった凶悪犯達は、あの戦いの中で呆気なく死んでいった」
客人が介入しなかった場合、それらの犯罪者達はどうなっていたか。
死んだはずの命と死ななかったはずの命。生じたズレは小さくあるまい。
そしてその事実に正しいか間違っているかなどという物差しを持ち出すこと自体、圭介には憚られた。
「私だってどうするべきだったかを決めつけられるほど賢くも傲慢でもない。正直、あの悪党共が駆逐された事実については喜ばしいとすら思う。けれどそれで世界は容易に動かされた。悪が滅びたことで職を失った者、家族を失った者……命を失った者も」
その結果、「“大陸洗浄”なんて起きなければ良かった」と考える者もいたのだろう。
「だから我々が必要なのだ。もう二度とあのような戦争を起こさないためにも。例え今日飢えて死んだ子供の亡骸を見たとしても、明日パンを盗む子供を許さないと決めた。絶対的な秩序、それによって齎される戦の種火も消えてしまうほどの窮屈を、この大陸は必要としている」
熱弁していると自覚したのか、そこまで語ってヴィンスははたと我に返ったように圭介の顔を見た。
「…………と、まあ意気込んでルールを守る側に回ってみたものの、ね。騎士団採用試験には落ち、単位目的で取得した教員免許で食いつなぐ日々。今では単なる足腰の弱った酔っ払いさ。いやはや情けない」
「……いや、先生は立派っすよ」
『誤魔化している』と態度が示す。しかしそれに言及する気は起きない。ただ、心底真面目な気質なのだということだけが明確に伝わった。
「じゃあ私はこっちだから」とヴィンスが圭介の住居とは逆方向に歩み始める。その背中に「お疲れ様です」と別れを告げる。
改めて一人になると同時に、圭介は自分の力を再確認するように路傍の石を浮かび上がらせてみた。
希少な魔術適性。客人として持つ危険な力。
それらがこの世界にどこまで通用してしまうのか、圭介は眠りにつくまで考えていた。




