第十話 悪意ある者
アルフィーが紅茶を啜りながら語った内容は、クエストの募集要項に記されていたものと変わらなかった。
この時期になると観光客が増えてきて、普段の警邏では対応しきれない面が出てくる。その穴を埋める形でクエストによって人員を一時的に補充し、治安維持に務めようという話だ。
「あの、気になってたんですけど」
そこまで話を振り返ってから、ミアが口を開く。
「観光客が来るシーズンを考えると、私達の滞在期間が二泊三日というのは短いのではないでしょうか。四日後にもお客さんは来ますよね?」
「そうですね。しかしこの三日間、特に今日の午後から明後日の夕方までがピークなんですよ。その間だけ手をお貸しいただければ後は我々と第六騎士団の皆様とで処理できる範疇となりますので」
彼は犬の頭部を持ちながらも静かに、そして流暢に言葉を紡ぐ。圭介は口元の構造がどうなっているのか気になったが、このすぐ後で仕事が控えているのだからとあまり考えないようにした。
「この時期、トラロックに来る観光客の皆様はその多くが太陽光を苦手とする魔族……まあ、言ってしまえばヴァンパイアと呼ばれる方々が主な客層となります。彼ら彼女らにとって“光を浴びても問題のない夕焼け”というものは非常に珍しいものであるらしく、またこの環境は避暑にも向いていますから」
言われてみて圭介は地下鉄を降りてからここに来るまでの間、一度もハンカチを取り出していないことに気が付いた。涼しく美しい街となれば夏場に混み合うのは確かに必然だろう。
「ただ、美しいといってもいつか必ず飽きが来ます。加えてあまり治安もよろしくないこの街ですから、四日も五日も居続ける人はそう多くありません」
『なるほど。主な客層であるヴァンパイアが滞在する期間も見越した上で三日間という期限を設けているわけですか』
「そういうことです。それでも夏場は普段より人が多くなるので、この時期には第六騎士団の皆様に支援をお願いしているわけですが」
アズマを見ても動じることなく、目の前のダルメシアン顔がふぅと息を吐く。
考えてみれば魔術などという超常的なものが一般的に普及している異世界において、はっきりと「治安が悪い」と評されている地域に勤める騎士なのだ。奇抜な存在にはある程度慣れているのかもしれない。
「夏休みに入った学生の皆様にとってあまり意味はないかもしれませんが、今日は建国記念日です。多くの企業が今日から数日間ほどの夏季休暇を設けており、当然観光にいらっしゃる方も今日から増えます。……特に日が沈み始めた頃合いから、ヴァンパイアの方々が」
建国記念日については少し前にアガルタ王国の成り立ちについて調べた圭介も知っている。
察するに今回のクエストが午後の警邏から始まる理由も、そのヴァンパイアの観光客らが来訪する時間帯を見越してのものだろう。
駅前で胡乱なやり取りが行われているような不穏な街に外部から多くの客が来るとなれば、トラブルが起きるのはほぼ確定事項と言える。なるほど確かにただ歩いているだけで終わるような仕事ではあるまい。
「そこで皆様には我々トラロック騎士団や第六騎士団の方々と共に街中の警邏をお願いすることとなります。具体的には指定されたルートの巡回をしつつ、何らかの揉め事や事件に同行している騎士の指示に従っていただくことになるかと。詳しいルートの説明については宿泊施設に荷物を置きに行ってから、後ほど改めて説明いたしますね。早速行きましょうか」
言うとほぼ同時にアルフィーはすっくと立ち上がる。
「これからその宿泊先にご案内します。あと三十分ほどで午後のミーティングの時間ですので、まずはそちらで一人一人、簡単なもので構いませんのでご挨拶と自己紹介をお願いしますね。それと皆さんにはこれから受付で入場カードをお配りしますので、今後こちらの詰所に入る際には必ず同じ受付で明示してください」
では、と歩き出す彼の後ろを他の面子も立ち上がってついていく。
受付で圭介達を案内する旨を伝えた彼は預けていたらしい“シルバーソード”を受け取ると、上履きから外履きに履き替え外に出た。事前に手筈も伝えられていたらしい受付嬢から首に下げるための紐がついたカードを受け取り、それに続く。
詰所を出てから到着までに五分もかからなかっただろう。
辿り着いたのは詰所と異なり、元は迷宮の一部だったと思われる壁に半ば無理やり組み込まれた建物だった。ただ石造りという点では他の建物とも共通しているらしく、全体はスプレッドランプの光を浴びて淡い象牙色に染まっている。
平坦な壁にめり込んだようなそれは寝かせられた口紅の先端にも類似した楕円柱の形をしており、出入り口である木製の扉は斜面に沿ったようにして設置されている数段の階段を上った先にあった。
「ここが皆さんの宿泊施設となっています。どれも変わりませんが、お好きな部屋に寝泊まりしてください」
そこまで大きくないように見えるこの建物に六人も入るのだ。恐らく他の客が入る余地はなく、また観光客を泊めるような広々とした部屋ではないことが騎士団の懐事情と共に窺えた。
とはいえ無料で宿泊させてくれるという好意に文句を言うわけにもいかない。事実あのやかましさにおいては定評のあるエリカでさえ何も言わずガムを噛んでいる。無言でも失礼を働く女である。
「じゃあ荷物だけ先に置いてきますね。」
「はい。準備が終わったらまた詰所に来てくださいね」
「了解でーす」
「はーい」
思い思いの返事をしてから、圭介は他のメンバーに気を遣って手前側の部屋に入った。こういう時に思わず上座下座を意識してしまう辺りは日本人である。
「さて、と……」
『なるほど。最低限用途に見合った内装と面積ですね』
「そういうこと思ってても言うんじゃないよ」
「おぉせっま! ここせっめえなあ! 逆に住みてえわ!」
「エリカ! 静かに! 壁そんな厚くないんだから!」
中に入って電灯のスイッチを押すとまず見えるのがベッドと机、その狭間のスペースに見える灰色のカーペットが敷かれた床だ。出入り口付近の壁にあるドアはやや狭いユニットバスに繋がっており、少し進むと上の方にはエアコンが取り付けられているのが見えた。
「寝て起きるだけ、って感じの部屋だな……」
事前にセシリアが警告していたのもあってか落胆は感じずにいられている。
強いて言うなら窓が存在しないせいで閉塞感を覚えるものの、アスプルンドでの経験を思い返すにそれはありがたい点でもあった。
ただ、今回は入り口からダグラスが入ってきてしまえば逃げ場がない。
(……上等だ、こちとらあの時とは違う)
襲われれば戦うしかない状況で、逆に決意が固まる。
手元にはクロネッカーに【サイコキネシス】、【ハイドロキネシス】にユーから教わった戦闘技術。
アズマという心強い味方がいる以上は不意打ちもままならないだろうし、まだ名前をつけていない必殺技もある。
率先して戦おうという気持ちにはなっていないが、戦闘に入っても冷静に対処できるだろうという場数を根拠とした確信が圭介の中にはあった。
そして彼はまだ気付いていない。
それら全てを合わせても、勝てない相手がいることに。
* * * * * *
トラロックという都市は唯一外部とのアクセスが可能である地下鉄の駅から離れれば離れるほど、そして暗闇が深ければ深いほど治安が悪くなる。騎士団の手が及びにくい奥まった路地裏など、時折当たり前のように死体が転がっているほどだ。
その中でも駅と対極にある無法地帯、トラロック第〇九二地区をダグラス・ホーキーは歩いていた。
常に夕焼けを模したかのようなこの街でも特に薄暗い通り道。砂利とも砂とも言い難い中途半端な小粒の石がざらざらと剥き出しの岩肌を覆ったそこは、まだ自らがダンジョンであった頃のことを忘れまいとしているようにも見えた。
そこに哀愁も憐憫も漂わせず、彼はただ買い物にでも行くように気軽に先へと進む。
少し歩いていくと、
「あぁがわいい、がわいいあがぢゃん……わだ、わだじの、あがぢゃ、あがっ、ぢゃっ」
両手首から先を無表情な赤子の頭部にすげ替えられた女が、焦点の合わない目をぎょろぎょろと動かしながら横道から出てきた。
赤子の口からはあかんべえをする舌のように一尺半はあるだろう両刃の剣が、新鮮な赤い血に濡れた状態で突き出されている。
服は返り血を隠すには明る過ぎる赤色で、足も真っ赤なハイヒールを履いていた。更に下腹部は妊婦とは異なり幾重ものベルトを無理に巻きつけたような膨らみ方をしている。
「あがぢゃ、おながっ、おながずがぜでるのぉ……おにくだべなぎゃだべなぎゃだべなぎゃだべなぎゃ」
「はーい邪魔ーどけー」
女が何か次の動きに移るより先に、やる気を感じさせないダグラスの蹴りが女の横っ腹に当たる。
脚部を後ろに引いておらず、ただ上に足を運んだだけに見える一撃はやや不気味に膨らんだ下腹部に接触した途端に女を空き缶よろしく吹っ飛ばした。
女の体に当たった足とハイヒールが接触している地面の抵抗力を増幅し、双方から弾き飛ばした結果である。
「――おっ、わーるい悪い。もう来てたかクソガキ」
女が付近の建物を飛び越えて蹴った本人からは見えないどこかに落ちると、頭上から声が聞こえてきた。
ダグラスはあくび交じりに声の主を見上げる。
「また変な実験でもしてたのか? お遊びも大概にしとけよクソジジイ。変なとこから足ついても助けてやんねえぞ俺ァ」
「あー違う違う、別に趣味でやってんじゃねえってばよ。ただウチのわけぇのがホムンクルスの失敗作を寄越してきやがったんでな、ちょっくら“商品”に加工できねえか試してみたんだが」
視線の先には、空中で直立している老人がいた。
種族はクラウンなのだろう小柄な体系で、深く刻まれた皺は浅黒い肌により黒い線を奔らせる。
ただ目元を隠すサングラスに禿頭を覆うバンダナ、裸に薄手のシャツを羽織ってダメージジーンズを履きこなす姿は年齢に不相応なファンキーさを醸し出していた。
「いやぁ駄目だわ! 俺好みのしけった人妻っぽい具合に仕立てようかと思ったのによ、いざ手ぇ出してみりゃあ出来上がったのはガキ作って可愛がることしか頭にねぇガラクタよ。腹ァ立ってガキとまとめて改造してみて、ついでに武器もありゃあせめて鉄砲玉くらいにはなるんじゃねえかと思ったわけだ。だから刃物持たせた状態で試しに何人か殺させながら一緒にお散歩してみたんだけど、どう? アレ商品になると思う?」
平然と非人道的な話をべらべらと捲し立てる相手にダグラスはにこりと微笑み、一言だけでもって返答する。
「雑魚」
「そっかーだよなー一発だったもんなー。まあいいや」
ふ、と老人が支えを失ったように空中から地面へと落ちた。落ちた、といっても本人の意思によるものだったのだろう、下り階段で一歩降りる程度の挙動で彼は難なくダグラスの目の前に着地している。
そして彼の目を真正面から見つめて、口元をいやらしく歪めた。
「で、クソガキおめぇブツは持ってきたんだよな? ありゃ、もしかして持ってきてくれてない? だったら殺すしかないけど」
「くっははは、やってみろや老いぼれが。ほらこの中にまとまって入れてあるぜ」
「ほっほぅ!」
ダグラスが取り出した小包を見た途端、これまた身軽にぶんどってビリビリと乱暴に包装を破きながら中身を改める。
中から出てきたのは高くもなさそうなイヤリング、何も差し込まれていない定期入れ、爪切り、小汚いパンツ。
そして、未開放状態のカード型グリモアーツが二枚。
「あーこれこれこれ! これ待ってたんだよォ!」
老人は他の物品には目もくれず、二枚のグリモアーツだけを手に取ってけたけたと笑う。その様子をただ黙って眺めているダグラスに、暫しうっとりとしてから向き直った。
「へへへ、今日は二枚も入ってやがらァ。おかげで儲けさせてもらってるぜダグラスちゃん」
「喜んでもらえて何より。んでテメェさ、今日が何の日かわかってんのか?」
「あ? 建国記念日?」
「オイオイ耄碌してんじゃねえよ。今日からケースケがこっち来てるっつー話忘れちまったのか」
「……………………あーっ、そんなんあったなあ! アレだろ、ほれ確か念動力使うやつで」
「そうそう、ソイツソイツ」
「お前が負けたってやつ」
「そうそう、いやあれは勝ち負け決まる前に時間切れになっただけだから」
訂正するダグラスを無視して、老人はジーンズのポケットからメモの切れ端を取り出した。
「そーだそーだ、で手頃な当て馬がいねえから俺に頼ったわけか。かーっ、めんどくせっ!」
「まあそれがあの人の命令だからしゃあねえさ。別に無理して殺さなくても、テキトーに相手して逃げちまえばいい」
「ハァ? 何それ」
そこで老人は初めて困惑した様子を見せる。
彼が知るダグラス・ホーキーなる人物は、確か客人と見た途端に殺しにかかる狂犬であり、客人であれば善人だろうが悪人だろうが死んだ状態でいてもらわないと困るとばかりに殺しに向かうような狂人ではなかったか。
「どうしちまったんだよクソガキらしくもねえ。まさか博愛主義にでも目覚めた? え、どうしたらいいの俺ちょっと本気でわかんない。こっわ。ていうかよく考えたら客人の名前憶えてるのがまずおかしかったわこっわ!」
「まあこっちも色々あったんだよ」
「マジかー。深くは考えないことにしとくわ」
得心したような表情だけ浮かべた老人は、次いでにやりと底意地の悪い笑みを浮かべた。随分と表情豊かな男である。
「でもよ。それって俺がその、け、ケースケ? とかいうのを殺しちまったらどうすんだ? やっぱ普段は優しいダグラスちゃんでも怒る?」
「その心配はしてねえよ。俺が殺し損ねたんだからジジイにゃ無理だ」
「ギャハハハハハハハハハハハ!!」
反対側にある駅や騎士団の詰所にさえ届きそうなほど、老人は大きく笑ってみせた。
まさかそこまで入れ込んでいるとは、と意外に思ったからか。愉快そうに顔を俯かせて自身の膝を叩き、まだ続けて漏れようとしている笑いをどうにかして噛み殺す。
「くくっ……。あのなクソガキ」
「あ?」
「テメェ、俺を誰だと思ってやがる」
ぬるりと上がったその顔には、サングラスなどという弱々しい装飾品では隠せないほどの鋭い目が貼りついている。
吐き出された声は黒い靄を幻視するほどに深く、暗く、悍ましい。
「あの地獄のような“大陸洗浄”を生き延び、裏社会で物乞いのガキから一国一城の主にまで成り上がり、テメェみてえな屑を殺してその死体で山ァこさえた大悪党」
その不気味さと不穏さの根底にあるのは悪意でもなければ害意でもなく、敵意でもなければ殺意でもない。
「このゴードン・ホルバイン様が、こっち来て数ヶ月のガキなんぞに負けるかよ」
あるのは飢餓と妄執。
満たされぬが故に満たさんと這いずる、餓鬼の気迫であった。




