第二話 彼女達がいない日々
遠方訪問を終えた二日後の早朝、圭介はマゲラン通りで日課となったジョギングに励みながら久しぶりとも思える街の景色を見回していた。
(やっぱどうしても『帰ってきた』って感じちゃうんだよな。あんまりよくない傾向だ)
もうここまで住み込んだ世界なのだ。その程度の感情を抱くのは仕方ないだろう、と遺憾ながら諦めも生じ始める。
今、圭介の頭上にアズマはいない。動力がどうなっているのかは未知の世界だが、魔道具である彼ないし彼女は大気中のマナを回路に刻み込まれた術式で吸収することでエネルギーを蓄えるのだという。
要するに食事はしないが睡眠のような形で充電時間が必要となるらしい。環境に与える影響の小ささを考えると素晴らしくエコロジーな話に思えた。
おかげで今は頭が軽い。
健やかな気持ちで足を動かす圭介は、やがてアーヴィング国立騎士団学校の前にまで来た。
日本の平均的なそれと比較してかなり広いスペースが設けられているグラウンドの方から、少年とも少女とも受け取れる声が聞こえてくる。
(中等部の体育会系の生徒はもう朝練してるみたいだな)
異世界のスポーツというものがいかなるものか気になって、調べてみたこともあった。
結論から言えば地球とほぼ同じ種目も多く見受けられたし、反面未知のスポーツも存在している。ただ地球のそれと比べて大きく異なるのは、制限が設けられているとはいえ魔術の使用が認められている点だろう。
ミアのカサルティリオやユーのアポミナリア一刀術なども、格闘技という枠組みに数えられているスポーツの一部だ。
「おっ、ケースケ君じゃねえか! 帰ってきてからは毎日サボらず走ってるようで感心感心!」
あれはどのような系統の運動部から発せられる掛け声だろうかと思いを馳せている圭介の耳朶に、無遠慮な胴間声が届く。
視線を声のする方へと向けると空色のドラゴノイドが小走りで寄ってきた。
アガルタ王国王都メティス騎士団総合本部第六騎士団団長、ガイ・ワーズワースである。
涼風館では圭介を何度か食事に誘ったり、騎士団の赤裸々な裏事情をこっそり教えてくれたりもした豪放磊落な男だ。
ただ五十代になった今でも姉の存在だけは怖いようで、その手の話題を振ると面白いくらいにしょんぼりとしてしまうことを最近になって圭介は知った。
「やぁガイさん。そちらも相変わらずお元気ですね」
「ったり前よお! 俺ぁ病気だけは一度もした記憶がないんだ!」
「ただ馬鹿なだけの可能性が浮上してますけど大丈夫ですかそれ」
彼が加入した時代の騎士団には筆記試験がなかったのだろうかと疑問が芽生えてしまう今日この頃である。
「そういや聞いたぜケースケ君、あの第一王女直下の王城騎士と一つ屋根の下で暮らしてるんだってな! やっぱもうヤることヤってんのか!?」
やはり騎士団には騎士団なりの情報網が構築されているらしく、圭介が話した記憶のない情報がガイの口から語られた。やや下品な物言いに辟易しながら圭介は冷静に対処する。
「流れるようにセクハラするのやめません? 何もありゃしませんよ。そもそも住んでる部屋は別々だし、もう一人別の部屋には同年代の男子もいるし」
「なんだよ他にも野郎がいるのかい。しかしまあ、賑やかでいいじゃねえか」
「正直ちょっと気ぃ遣いますけどね。でも元々家には兄がいたんで、ある意味以前の世界での暮らしに近づいたとも言えるのかな」
隣室に人がいるという意識は正直煩わしくもあるものの、それによって守られている立場なのだから強く言えないというのもある。
「ほぉーん、兄貴いたんか。どんな男だったんだ?」
「壊れやすいものを手に持たせたら十秒で指を滑らして落として壊し、外で昼寝しようものなら口目がけて鳥のフンが落ちてきて、これまでの人生で惚れた女が全員清純派気取りのクソビッチだったもんだから女性不信に陥ってるような奴でした」
「普通にかわいそう……」
奇妙な星の下に生まれてしまった圭介の兄だが、まさか異世界のドラゴノイドに同情されるとは思ってもみなかったに違いない。
ある程度話し込んでいるとそれなり時間も経ったのか、グラウンド方面から聞こえていた掛け声は既に消えている。ガイも腕時計をちらりと見てふんすと鼻息を鳴らした。
「そろそろいい時間か。んじゃケースケ君、俺ぁもう行くわ。朝飯もまだだし面倒な仕事だって控えてるんでな」
「はい。お疲れ様でした」
走り抜けていくガイの後姿を見て、圭介は思う。
(面倒な仕事、か。セシリアさんも急な仕事が入ったらいなくなったりするんかな)
それ自体は特に気になる部分でもないが、圭介にとっての懸念事項が一つある。
(頼むから『だから着いてこい』って展開は勘弁してくれよ)
遠方訪問が終わり、夏休みも控えているこの時期。
少しは休む時間を確保したいというのが、圭介の偽らざる本心であった。
* * * * * *
ミアから聞いた話によると、エリカとユーの帰還にはあと二日を要するらしい。
それならアルバイトも入っていない午前中はクエストなどの活動も自粛してひとまず休養に専念しようと思った圭介だったが、無為に部屋で寝転がり続ける気にはなれず現在図書館に来ていた。
マゲラン通り沿いにある第一メノウ図書館は王国内でも五本の指に入る蔵書量を誇る。それだけに留まらず、快適な読書を可能とする目的で空間内の随所に柔らかなソファが設置されていた。
圭介も隣りに書物を置くための小机が用意された一人用ソファに座り、かなり楽な姿勢での読書に没頭している。
調べているのは相も変わらず元の世界に戻るための手段だ。
帰還するための情報を集める上で第一王女の援助をいつでも受けられる立場になったものの、相手が相手である。おんぶに抱っこでは後が怖い。
せめて自分で集められる情報を可能な限り集めてから声をかけなければならないのだ。
圭介が今読んでいるのは、ビーレフェルトと客人の歴史についてまとめられた大陸史関連の資料である。
(……アガルタ王国建国とほぼ同時期から、頻繁に客人が来るようになったのか。逆にそれ以前は今ほど来てなかったってことだよな。どういう理屈だ?)
『客人の転移はアガルタ王国が恣意的に起こしている現象なのではないか』と一瞬疑った圭介は、すぐにその考えを振り払った。
王国内で完結している問題ではないのだから、そこで一国家と世界全体を巻き込むオカルト現象を結びつけるのは暴論というものだろう。
否定する要素はいくつもある。
まず最初の段階で客人をこちらに召喚する術式なり魔道具なりを発明するとなっても、そのためにはまず異世界の存在を知っていなければ成立しないのだ。
自分達が存在する世界とは別の時空などという実在すら怪しいものを前提として、そのような手段を確立しようとする国があるとは考えにくい。
更に『客人はビーレフェルトの住民以上に多くの魔力を有する』という客人を抱え込む側に有利な性質も、実際に転移させてみるまでわからない事実のはずだ。そんなものを国が頼りにするだろうか。
客人を兵力として派遣するという迂遠な目的意識は常識的に考えて発生すらしないだろう。誰でも扱える魔動兵器の開発に秀でた技術国家、アガルタ王国なら尚の事である。
加えて先にも述べたように客人の転移はアガルタ王国内に限られたものではない。
もしも客人が大陸の住民達以上に魔術に秀でた存在であると知った上で恣意的に召喚できる手段が確立されたとして、それならば何故他国にまで転移させる必要があるのか。それこそ“大陸洗浄”を見る限り自殺行為でしかない。
そういった論拠もあり、圭介は自分がビーレフェルトに来た理由をアガルタ王国に求めようと思わなかった。
しかし完全に無関係と言い切るには少々時期が絶妙過ぎる。何があったのだろうか、と考察する中で以前エリカから聞いた話を思い出した。
“四人の女神”。
この異世界を創り上げたとされる女神達は、最終的に一人を除いてそれぞれ世界の管理を放棄してしまった。その結果として残された最後の一人、智の女神が客人をビーレフェルトに呼び寄せて管理者の代用とした、という筋書きである。
もしもアガルタ王国建国と、他三人の女神が離脱したことに何らかの因果関係があるとするならば。
この国は、世界の真相に最も近い場所なのかもしれない。
(いくらなんでも論理の飛躍ってレベルじゃないな)
そこまで考えて、圭介は自分が歴史とお伽話を一緒くたにしていることに気付いた。
調べてみたところビーレフェルト三大国家の一つであるアガルタ王国はおよそ一七〇〇年という歴史を誇り、その建国当年は“四人の女神”という物語が創られた時期と一致するようである。
だが言ってしまえばそれだけの話だ。作者不明であるこのお伽話には紡ぎ手の思想や信条といったものが全く見えず、同時に何らかの風刺を含んでいるという可能性も低い。
当時のアガルタ王国を統治していた初代国王、マクシミリアン・アガルタと王妃であるリリィ・アガルタに何らかの目立った問題があるようでもなかった。恐らく作家が皮肉混じりの創作に走るような人物ではなかったのだろう。
(結局、お話はお話でしかないってことか。結びつけるのは無理がある)
嘆息して今度は客人の転移率がどのように変動しているのかをまとめた統計データに目をやる。
アガルタ王国建国当時、一日だけ客人の転移がヨーロッパ系を中心として急激に増加した瞬間が記録されていたという。
時間は深夜二時、場所は大陸各地でまちまちで客人の転移率が上昇し始めたのもその日からだったらしい。
これについては精密な人数なども棒グラフなどを用いて懇切丁寧に記載されており、大陸でも有名なオカルト現象として紹介されていた。
更に奇妙な点がある。当時転移してきた客人は多くが記憶喪失の状態にあり、尚且つ客人としての力も通常のそれと比較すると微弱なものだった。それこそほとんど大陸の住民達と変わりないほどに。
同時に客人の中でも有識者として知られる者から知見を得た上で、その大規模な転移が生じた日に関する興味深い話も書かれている。
彼らはビーレフェルト大陸で使われているカフォト暦という暦法を地球のグレゴリオ暦に置換して計算し、客人の転移率増加と同じタイミングで地球に何らかの大災害が生じてはいなかったかを検証した。
つまり大規模な行方不明者の発生が地球上の歴史に記されていなければこちらの世界での転移率増加と辻褄が合わないため、まずはそこから調べようとしたのである。
結果として地球における一七〇〇年前、即ち西暦三〇〇年代後期から四〇〇年代前半にかけて目立った災害など生じていないことが判明した。
(大きな災害があったわけでもないのに客人が大量に転移してきたってのか……? 地球の記録に残らない形で? いやいやおかしい、何かがおかしい)
わからないから調べているのに調べたことで余計に疑問点が増えるという悪循環。
まるでこの世界を脱出しようとする動きを、先回りしている何者かに妨害されているような気分になる。
(帰還者の記録もあるっちゃあるくらいなもので参考にできるレベルじゃないしなあ。魔術で戻ろうにもそんなわけわからん術式どこにも公表されてないし……ん?)
以前圭介が推測した、“魔術による帰還”など本当に可能なのか。
そこに思考が向いた途端、怖気、恐怖にも類似した確かな閃きがあった。
(待てよ。仮にモンタ君が教えてくれた客人の帰還が、魔術によるものだとしたら)
あくまでも可能性としてあり得るというだけの話。
それが事実だとするならば、意味するところは何か。
(――こっちとあっちを行き来してる誰かがいたとしても、おかしくはない)
もちろんこんなのは考察の末に浮上しただけの、単なる妄想に過ぎない。
だが仮にそんな存在がいたとすれば、地球への帰還は現実のものとなるだろう。
当然、そんな相手が見つかれば苦労はしないのだが。
(まあ、いたとしても他人においそれとそんな魔術教えられないよな……。これまでに帰っていった客人達も、本当に偶然何かの事故で戻れただけかもしれないし)
妄想を頼る程度には脳も疲れているのだろう。
今日はここまでにしようと圭介は本を棚に返却し、外に出た。同時に直射日光が冷房の恩恵によって冷まされた体を容赦なく攻撃してくる。
帰りに何か冷たい飲み物でも買おうかと、足は最寄りのコンビニエンスストアへ向かって動き出した。
日の光は強く、喉も渇き、鬱陶しい汗が全身を覆う嫌な時期が盛りを迎える。
それでも日本で同じ季節を過ごすよりは、幾分快適な暑さに思えた。




