第十一話 校長先生、自宅に来たる
「お帰りなさい。夕飯の準備は既にできていますので、手洗いとうがいを済ませてきてください」
「………………は、はい」
帰宅した圭介を出迎えたのは、エプロンを身に着けたレイチェルだった。
実際の年齢がいくつであれ、外見は二十代と言っても通用するほどの若作りである。
そんな美女が家庭的な佇まいで出迎えてくるのだから思春期の少年からしてみれば精神衛生上よろしくない。
鋭い目つきのクールビューティーという印象の強かった彼女が暖色のエプロンを選んでいるところも奇妙な愛嬌があった。
言われるがままに洗面所へ向かい、手洗いとうがいを済ませて居間に入る。同時に醤油やだし汁を熱することで漂う匂いが鼻腔を撫で、日本人である圭介の食欲と郷愁を煽った。
半ばその懐かしさに誘われるようにして台所に入ったが、調理過程で手伝うことが残されていないとわかり食器の準備を始める。
「今冷蔵庫の中って何か入れてあります? 山菜入れるスペースがあると助かるんですけど」
「想定済みです。野菜室が空いていますのでどうぞ」
「ども。……こっちの世界にも醤油とか味噌とかあるんすね」
「客人の中には凝り性の職人もいますから。特に醤油は多くの料理人が感銘を受けました。中には泣き出す者まで現れる始末で」
「ふーん。魚醤とかは? この近くにあるか知りませんが、港町だとそういうのもあると聞きますけど」
「あるにはありますが、醤油とは全く違うでしょう」
そういうものか、と圭介は納得する。とりあえずとばかりに発言しておいて無責任な話だが、彼は魚醤の味を知らない。
やがて、待つというほどのこともない時間が流れてテーブルに二人分の料理が並べられた。
献立は〆鯖が数切れに小鉢に入れられた肉じゃがが少し、大根らしき漬物に白飯となめこの味噌汁。クエスト終了後の山菜の天ぷらにしてもそうだったが、よくよく和食を食わされる日である。
そしてここで圭介は、異世界に来て一度もパンを口にしていないことに気付いた。
「恐らくパトリシアさんから山菜料理をご馳走になってきたでしょうから、軽めの料理だけ用意してあります。とはいえ育ちざかりでしょうし、不足でしたら遠慮なく言って下さい。追加で何かしら作りますよ」
「い、いえいえ! 寧ろありがたいっていうか、申し訳ないっていうか……何だか僕のために食生活まで面倒見てもらっちゃってるみたいで」
思えば当たり前に使わせてもらっている茶碗や箸も彼女の自腹で購入したものだろう。
当然のように食器類を置いていく構えのレイチェルに、圭介としては恐縮するばかりだ。
「特にこういったメニューなんて、皆さん本当はパンとかの方が馴染みがあるでしょうに」
「貴方のように体毛が黒い客人と比較すると、我々ビーレフェルトの人間は唾液の分泌量の関係でその傾向が強いのは認めます。しかし一個人としてはあまり好き嫌いが無い方ですのでそこまで気を遣っているという認識はありません。元々料理は好きですし」
「そう、ですか?」
「ええ。どのような珍味でも私の場合は美味しくいただけますしね。唯一食べられなかったのは…………あ、いや。悲しくなるのでやめておきましょう。私一人が傷つくだけでは済みそうにない」
「え、やだちょっと。何食わされそうになったんですかちょっと、怖っ」
意外にも会話が弾む食事の時間を過ごして、気付けば全て平らげ食器も片付け終えていた。
控えめな量だったこともあってあっという間だったが、二人にとってはここからが本番である。
食休みするには充分な時間を隔てて、向かい合って座るレイチェルからある程度予想通りの言葉が紡がれた。
「まずはこちらの世界での丸一日、お疲れ様でした。こちらでの生活はいかがでしたでしょうか」
「あー、そうですね」
一拍置いて。
「皆さん親切過ぎてこう、申し訳ないと感じることが多いくらいです」
「それは良かった」
「いやホント、エリカ達はこっちの世界について何かと教えてくれるし、学校では先生方、クエストでは依頼主のパトリシアさんから色々とよくしてもらってますし。さっき持ち帰ってきたタッパーも実はパトリシアさんが善意で貸してくれたものなんですよ」
「なるほど。一応言わせていただきますが、今のタッパーの件は私のような立場の者には言わない方が身の為でしょう」
「へ? 何でです?」
何かまずい発言だったかと無意識に背筋が伸びる。
「学生がクエストを通じて地域の方々と交流するのは我が校としても支援すべき事項ですが、物品のやり取りはあくまで暗黙の了解として黙認されているに過ぎませんので。本来であれば処分や没収の対象となります」
「あー……すみません」
己の軽率さに気付かされ、圭介は気まずそうに押し黙った。その様子を見たレイチェルは咎めるでもなく溜息を吐く。
「今回は聞かなかったことにしますのでご安心ください。他には、何か」
「えーとですね、もうエリカから聞いたりしてるかもですけど」
僅かに言いづらさを滲ませてから、圭介は排斥派グループ[羅針盤の集い]とのやり取りを極力客観的な観点から説明した。
「ふむ、[羅針盤の集い]ですか。確か造船業で時の人となった貴族、ジェレマイア家のご子息であり高等部二年生でもあるウォルト・ジェレマイアがリーダーを務める排斥派の集会でしたね。彼らのことは私達教員の間でも時折話題に上がりますよ」
「あらら、先生方の間でも有名人だったんですか」
「ええ。私自身も以前、校門前で無許可の演説を始めたところを取り押さえたことがあるので記憶に残っています。……あの時はお忙しい中だというのに、ウォルト君のお父上が直接お越しになられて大変でした…………」
頭を抱えるレイチェルの姿は、当人にとって不本意だろうが様になっていた。恐らく頭を抱え慣れているのだろう。
「そ、そうだったんですか。いやしかし大変ですよね、モンスターペアレンツって言うんですかそういうの。僕らの世界でも問題になって……」
「逆です」
「えっ」
レイチェルの無表情にほんのりと、特定の人物に対する憐憫の情が滲み出る。
「彼のお父上であるブルーノ・ジェレマイア氏は現場に来ると我々への挨拶もそこそこに、ご子息に向けて無言で渾身のラリアットを決め込みました」
「あれ、どこかで聞いたことあるような生育環境」
「その後ジャイアントスイングで五分ほど回転を続け」
「それお父上も辛くないですか。ていうか周りも止めましょうよ、ちょっと見ていたくなる気持ちもわかりますけど」
「丁度近場にあったガードレールにご子息を投げつけたのです」
「ウォ、ウォルト先輩……」
「白目を剥いた彼に向かって氏が放った一言が『あれだけフロント・フェイスロックを極め込んでやったのにまだ懲りずにこんな活動をしていたのか!』というものでして」
「やめましょうそういう反応に困る話するの。造船業やって一山当てた貴族がどうしてそんなに肉体派なんですか」
思わずレイチェルと一緒になって頭を抱えてしまう。
貴族が我が子可愛さに学校側を責めるという展開かと思いきやまさかの先輩四面楚歌状態に、一応彼の被害者と言えなくもない立ち位置にいる圭介ですら同情の念を禁じ得なくなってきた。
「まあ、そういった経緯もありまして。学校側としては彼を問題児として扱うべきか被虐待生徒として対応すべきか今でもはっきりとしておらず」
「あんまり問題児扱いしないであげて下さい。こんなん僕が頼むのもおかしい話ですが」
「いやそこで来て間もない内に彼に絡まれた客人である貴方が彼の肩を持つ発言をするとですね、更に色々とこんがらがると言いますか……」
「こっちもまさか異世界に来て最初に迷い込んだダンジョンが学校内での人間関係だとか思いませんでしたよ。どうするんですか、僕もうあの先輩のこと憎めませんよ」
「あー、うー……ともかく彼への対応は我々教職員に任せて下さい。現状他に問題が無いようであれば文字の学習と並行してクエストの経験を積み、当面の生活費を捻出することに集中していただきます。こちらも可能な限りサポートさせていただきますので」
それから、と付け足す。
「ここからがこちらとしては本題なのですが、まず各科目ごとの教科書の手配が終わりましたので本棚に入れておきました。後ほどご確認ください」
「あ、ど、どうも」
元より彼女がここに来た最大の理由がそれであったと今更になって思い出した。
まだ文字の読み書きが完璧な状態ではない圭介にとって今すぐ必要なものではないが、それでもある程度読める段階ですぐ手に取れるのはありがたい。
「明日も今日の午前中と同じように、また昼休みまで個別授業を行います。これはあと一週間ほど続ける予定ですので悪しからず。ノートは必要数に加えてもう一冊おまけしてありますので、こちらに置いておきますね。用途はご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」
「そして昼食を終えて午後からの活動ですが、エリカ達のパーティがクエストを受注しない限りは引き続き文字の勉強を進めてもらいます」
文字は今後の生活全てにおいて必要となる情報だ。勉強を怠けるわけにはいかない。
普段はあまり学問にモチベーションを持てない圭介だが、今回ばかりは気合いを入れて臨んでいた。
「現状でも既にある程度の文法と簡単な単語はご理解いただけているようですが、この一週間の中で他人からのアドバイスを受けずにキーボードの操作をこなせる程度にまで習得して欲しいのでそのつもりで」
まあスマホあんだからキーボードくらいあるよな、と心中で呟きつつ頷く圭介だったが、
「そしてこちらの書類に改めてアガルタ文字で氏名の記載をして下さい。貴方用のグリモアーツの受注書ですので」
その一言で一気に高揚した。
「ええぇ!? え、僕もグリモアーツもらえるんですか!? 早くないですか!?」
「まあ早いと言えば早いですね。本来であれば座学の授業を規定数受講しなければならないのですが、そちらは今後の午前中の授業で賄います。少し早いくらいでなければクエストの進行も滞るでしょうから」
「そ、そうなるとアレですかね」
「どれですかね」
「僕もその、魔術とか使えたりするんでしょうか?」
興奮気味の圭介に対し、あくまでもレイチェルは冷静に返す。
「訓練次第では。客人の場合は全般的に来訪からおよそ一週間程は魔力自体操れないものの、一度行使できるようになればこちらの世界での常人よりも優れた魔術を扱えるようになるのが基本と言われています」
異世界転移による恩恵のようなものだろうか、と圭介は推測した。
が、今重要なのはそこではない。
これまでフィクションの世界にしか存在しないと思われていた魔術の存在に触れるばかりか、自らの力として操る日が遠からず訪れる。
いつからか夢見なくなった異能の力の獲得が目前に迫ると同時に、萎びていたはずの中学二年生が鎌首をもたげているのがわかった。
とどのつまり漫画の主人公的な自分の状況に心が弾んでいた。
「必要な手続きは追って連絡いたしますのでお待ちください。こちらはそれら諸々のために明日提出していただきたい書類です」
テーブルの上には書類と同時に何かのカタログも並べられる。
「今から指定していただければグリモアーツの待機形態、カラーリングを選択できます。最近学生の間ではカード型の待機形態が人気のようですよ」
「あれって流行とかそういうのだったんですか……」
「王城勤務の騎士団となると全員均一の武装型になりますけどね。他にもネックレスや指輪等のアクセサリー型や肉体に直接埋め込む内蔵端末型がありますが、個人的にはやはり持ち運びやすさと扱いやすさの面からカード型を推奨します」
「じゃあカード型で。カラーは……特に希望無いんでお任せします」
「そうですか。でしたらこちらで決めておきますので、残りの書類にサインとこの部屋の住所を記入してください。こちらが戸籍謄本用、こちらが戸籍抄本用、こちらが……」
昨日の夕方と比べれば然程の量でもなく、済ませるべきは淡々と済ませてしまえた。アガルタ文字に慣れが生じたのも大きい。
粗方書き終えた圭介に、レイチェルは紙束を受け取りながら視線を合わせる。
「……どうでしょう。ウチのエリカが何かご迷惑をおかけしていませんでしょうか」
少し声色に心配そうな気配が宿る。そんな彼女に圭介は何か微笑ましいものを感じながら、正直に答えた。
「まあドン引きするくらい口の悪い奴ですけど、昨日が初対面とは思えないくらい仲良くやってますよ。色々としてもらっちゃってますんで、こっちとしてはあんな優しい子と最初に出会えてラッキーくらいには思ってます」
「そうですか。それは、よかった」
心配が安堵に変わったと見える。
レイチェルは無表情との差異がつけ難い穏やかな笑顔を浮かべると、書類の数々をまとめて封筒に入れて立ち上がった。
「長々と失礼いたしました。そろそろ時間も時間ですので、今日はここで。また明日よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ」
レイチェルが封筒を鞄に入れ、外に出る。離れていく後ろ姿は背筋をぴんと伸ばしていて、少し話しただけでも伝わる彼女の心労を隠してしまっていた。
その弱みを見せない姿勢こそが彼女の強さであり、縁に恵まれない要因でもあるのだろう。
玄関から外に出ると、丁度圭介の部屋の真ん前から通路を跨いだ場所に駐輪場らしき屋根つきのスペースがある。そこから左に視線を逸らせば遠くない位置に敷地外の道路が見えた。
夕暮れの茜が切れ端だけ遠くに残る夜空の下、敷地内にある芝生に設置された上向きのマリンランプが無遠慮に視界に飛び込み情緒を邪魔している。
黄昏時をやや過ぎたこの時間帯、グレースーツを身に纏うレイチェルの痩躯はアスファルトの敷かれた風景に馴染んでしまって輪郭をほんの少しだけぼやけさせていた。
「ああ、そうでした。一つ言い忘れていましたが」
だからだろうか。小走りですぐに接近できる距離にいるはずの彼女の声はどこか遠い。
「元の世界に戻る為の手段を探しているようでしたら、丁度よい相談役に心当たりがあります。明日の諸々のついでにでもご紹介しますよ」
「マジですか! いやあ、グリモアーツの件もそうですけどホント助かります!」
「あまり期待するものでもありませんけどね。それでは今度こそ、これにて」
元の世界に戻る方法。これまでの周囲の言動から、かなり厳しい問題であると圭介も認識はしていた。
だが、諦めたりはしない。そもそも『帰らない』という選択肢が彼の中にない。
褌を締め直す心持ちで圭介は部屋に戻り、
「校長先せーい! エプロン忘れてるー!」
また外に出た。




