一話
大抵の人にとって、「死」っていうのは自分とは程遠い事柄なわけで。
もちろんそれはいつか来るモノで、逃れられないモノだとも知っているし気が付いているのだが、あんまり深くは考えずに過ごしている。というか、過ごさざるを得ない。
変な話だが、『生きてく』為にはそういったことも含めた日々の生活のことを考えなきゃいけないからだ。その中では『死』ってのはあくまでそうなったらマズイ、そうならない為に、とかいった、行動を取るための目安というか参考というか、1つの事象に過ぎない扱いになるのである。
保険だって掛けるし、事故なんかにもならないようにも気を付ける。残酷な事件に心を
痛めて警戒するし、命の奇跡には涙と共にその経過を見る。
あくまでも遠い、1つの可能性。そういう風に軽く考えていかないと、とてもじゃないがこの世知辛い世の中を生きてはいけない。
聖人君子に程遠い現代人には、そんなことを考え続ける哲学につかる余裕は一部の方々にしかないだろう。未来の種より明日のパン、というわけだ。
だいたい、いつもそんなことばっかり深く考えていれば、いつか悟るか―――いつか、気が狂う。
だから大抵の人は、せいぜい布団の中で天井を見つめている時なんかに、ふと想像して身震いする、とっさに小さく叫んでそのわけのわからない衝動を抑える、その程度だ。
朝になったら忘れるし、日々の生活にも支障はない。
そういう事をいつも考えているのは、思春期の奴とか、身近な人間が死んだ奴とか、死が間近に迫っている奴とか。そのぐらいだろう、少なくともこの平和な日本では。
まあだから、こういったことをつらつらと考えている俺もそういう例外に当てはまるわけだ。
最近、俺の友達が自殺した。
小学校からの同級生だったそいつは、中学校を卒業して、それぞれ違う高校になってもしばらくは交流があった。親友、と言う程には近しい間柄じゃなかったのかも知れないが、それは立派に腹の底から笑いあえる友達の1人であった。
そいつが突然、死んだという連絡が入ったのは、大学に合格した俺が四月から一人暮らしをするための最後の荷造りをしている夜だった。
連絡をくれた友人の第一声の時には、はっきり言ってその意味を理解できなかった。笑いそうになる声で何の冗談かと聞いたら、ホントなんだよ、と電話口からも今にも笑い出しそうな震える声が聞こえてきた。
自分に似た震えの声を聴いたとき、俺は、ズン、と体の奥で、何かが落ちるような感覚に襲われた。
たぶんその時、言葉では理解できなかったそれを俺の体はいち早く事実として理解してしまったのだ。
だが、理解したのはあくまで体の方だけだ。俺の心の方は、妙な気持ちのままでその事実を受け入れられないでいた。認めたくないとか、悲しすぎてとかじゃなくて、ただ単純に『信じられない』だけだった。
今この瞬間、実は違いましたとか誰かが言い出すんじゃないのか?ひょっこりその角からあいつが現れるんじゃないか?盛大な嘘だったと、皆で笑い出すんじゃないのか?
その思いは、告別式の席でお経を聞き流している時でも。火葬場で棺の中にいる目を閉じたそいつの姿を見たときも。
―――骨を壺の中に入れる時になっても、ずっと消え去ることはなかった。