86.
前田はまだ来なかった。つまり、考える時間と行動する時間があった。須田は木村の事務所に電話をかけた。
「はい、木村興信所です」
「須田だが。木村は戻ってるかな」
「ええ、戻ってますよ。替わります」
しばらく保留音が鳴っていた。
「今度は何の用」
機嫌の悪そうな木村が出てきた。
「調べてもらいことがあるんだが」
「あー、はいはいわかりました。わかったけど、それなりの手続きってもんがあるんじゃないの?」
「それはあとでやる。もちろん清算もあとでやる」
「口約束で現金前払いじゃないってのは気に入らないんだけど」
「心配ない。今までだって書類は作ってるし、しっかり払ってるだろ」
「ああそうですね、弊社としましては申し分のないお客様でございますよ」木村はあきらめたように息を吐き出した。「今回は割り増しでお願いね」
「それじゃ本題だ」
「はいはい」
「最近半年くらいの期間で、60代の人の良さそうな男が不穏な動き、具体的に言うとドラッグにからむようなことがあったのか。それを調べてもらいたい」
「爺さんがドラッグ? それはまた、ずいぶんと変わった趣向だこと」
「これなら雲をつかむような話でもないはずだ。急ぎで頼む」
「いや、珍しいとは思うけどね。まあ、期待しないでくれてほうがいいんじゃないの」
「いいや、期待してる」
須田はそう言って電話を切った。受話器を置くと、ちょうどいいタイミングで電話がかかってきた。
「はい、須田探偵事務所です」
「前田です」
多少硬い感じがする前田の声に、須田は嫌な予感がした。
「どうしました?」
「すこし、都合が悪くなったので、すぐには事務所に行けなくなりました」
「そうですか。それでは、都合が良くなったら連絡をください。いつでもかまいませんから」
「ええ、その時はお願いします」
前田が電話を切ったあとも、須田はしばらくの間受話器を放さなかった。
苦しい状況なのは間違いなかったが、そんなことは珍しいことでもない。須田は受話器を静かに置くと、勢いよく立ち上がって事務所を後にした。




