第8話 詰まり
朝の空気は澄んでいた。
アルバートは森の縁に立ち、霧の濃くなる境目を見つめていた。
人が不用意に踏み込むべき場所ではない。
一歩、足を進める。
その瞬間、足元の空気が変わった。
音もなく、淡い光が輪を描く。
膜と呼ぶには薄すぎる。
だが確かに、そこには境界があった。
霧が、触れない。
押し返されるわけでも、弾かれるわけでもない。
ただ、そこから先へ進まない。
アルバートは立ち止まり、その状態を保ったまま、しばらく観測する。
霧は揺れ、形を変えるが、内側には入り込まない。
「……ここまでか」
小さく呟き、足を引いた。
光はすぐに消え、周囲は何事もなかったかのように戻る。
アルバートは記録に短く書き足し、森を一度だけ振り返って、その場を離れた。
⸻
朝から、エリアの体は重かった。
体力がないこと自体は、昔からだ。
それはもう、諦めがつくほど慣れている。
だが、最近のこの感覚は違う。
考えが鈍ったわけじゃない。
頭の中は、むしろ冴えている。
それなのに――
思考が進もうとする、その直前で引っかかる。
(……まただ)
判断はできている。
次に何をするべきかも分かっている。
なのに、体と反応が一拍遅れる。
それを自覚するようになったのは、
湖で波紋を追うようになってからだった。
水面に広がる揺れを見て、
その歪みから位置を読む。
集中すればするほど、感覚は研ぎ澄まされる。
その代わり、あとから必ず重さが残った。
(いつもの疲れてる、って感じでもないんだよな)
湖へ行くことも考えた。
だが、あそこは町の外だ。
今の調子で往復するには、少し距離がある。
(今日は、そこまで動く余裕はない)
代わりに、エリアは別の選択肢を思い浮かべた。
宿だ。
町の主要な通り沿いにあり、歩いて行ける距離。
調査目的の学者や旅人が泊まるなら、まず間違いなく、あそこだ。
遠くへ行かない。
無理をしない。
それでいて、待てる。
今の自分には、それが一番合理的だった。
昼は家で過ごし、体力を温存した。
待つと決めた以上、焦る理由はない。
日が傾き始めたころ、外套を羽織って宿へ向かう。
扉を開けると、すぐに声がかかった。
「あら、ぼっちゃんじゃない」
宿屋の女将、マーニーだった。
彼女は町で商いをしており、
祝い事や来客の多い日には、領主館へ給仕に来ることもある。
エリアにとっては、幼いころからの顔見知りだった。
「どうしたの? こんな時間に」
「少し、待ち合わせです」
「あら、珍しいわね」
そう言いながら椅子を勧めてくる。
エリアは腰を下ろし、短く礼を言った。
ほどなくして、扉が開く音がした。
外套を払う音。
落ち着いた足音。
顔を上げると、アルバートだった。
⸻
「こんばんは」
声をかけると、アルバートはすぐに気づいた。
「君か。具合はどうだい」
穏やかな声音だった。
「……正直に言うと、最近おかしいです」
エリアは少し言葉を選ぶ。
「昔から体力はなかったですけど、
考えが詰まることは、なかった」
「いつ頃からだい?」
「湖で、水の揺れを意識して見るようになってからです」
アルバートは、静かに頷いた。
「少なくとも、思考が鈍いようには見えない」
一拍置いて続ける。
「この状態でだ。
神経伝達に影響が出ている今でも、
受け答えも判断も、遅れていない」
エリアは眉をひそめた。
「じゃあ……」
「神経の伝達と、魔力を通す回路だ」
アルバートの声は落ち着いている。
「両方に、同時に負荷がかかっている」
「……両方?」
「魔力は、まとまる性質を持つ」
専門的になりすぎないよう、言葉を選ぶ。
「君は魔力が大きい。
だから、粒子のまとまりも大きくなっている」
「それが……」
「神経の邪魔をし、
同時に魔力の道も詰まらせている」
エリアは少し考えてから言った。
「じゃあ、最近だけ調子が悪いのは……」
「扱っている力の密度が変わったからだ」
アルバートは頷く。
「約束していたね。
次に会ったら、抜き方を教えると」
エリアの背筋が伸びる。
「……今日、お願いできるんですか?」
「できるだけ早いほうがいい」
口調は終始、穏やかだった。
「危険なことはしない。
今日は、私が補助する」
「……お願いします」
⸻
宿の裏手。
人通りの少ない空き地だった。
「剣も魔法も使わない」
アルバートはエリアの正面に立つ。
「立って、呼吸するだけでいい」
「それ、危なくないやつですか」
「今日は安全だ」
即答だった。
エリアは軽く息を吐き、立つ。
「君は何もしなくていい。
今は、こちらで条件を整える」
その瞬間、エリアははっきりと感じた。
胸の奥にあった重さが、ほどけていく。
思考が、途中で止まらない。
(……通る)
アルバートは表情を変えず、内側を観測する。
(フェルマ粒子の密度が高い)
(これほど大きなまとまりは、やはり珍しい)
光の補助で密度を調整する。
粒子がほどけ、自然に外へ漏れていく。
「今だ」
エリアは目を閉じる。
呼吸。
感覚。
「……抜けた」
「そう」
アルバートは頷いた。
「今の感覚は覚えておきなさい。
ただし、今日は私が調整している」
「ですよね」
エリアは即答した。
「これ、僕が急に上手くなったわけじゃない」
「違う」
「分かってます」
そのとき、足音が近づく。
「始めてたのね」
ラミアだった。
「見学してもいい?」
「もちろん」
アルバートは自然に答える。
エリアは小さく息を吐いた。
軽さは、まだ続いている。
――借り物だが、確かに道筋は見えた。




