第25話 独断
ローガンが椅子から立ち上がった瞬間、食卓の空気が変わった。
怒鳴らない。
けれど、逃げ道が消える音がした。
「案内しなさい」
それだけ。
フェイが反射で立ち上がる。
「私も同行します!」
「声がでかい」
アーサーの一言で、フェイは背筋を伸ばして口を閉じた。真面目だ。
メルが外套を差し出す。
「エリア様、上着を」
「ありがとう」
エリアは受け取り、羽織る。
パンが半分残っていたのが少し惜しい。でも今はそれどころじゃない。
⸻
鐘楼の横の林は、朝の湿り気を抱えたままだった。
影が濃い。
人がわざわざ入らない場所。
そこに、狼がいた。
座っている。
立たない。唸らない。
ただ、こちらを見ている。
フェイが息を呑む。
「……本当にいる……」
ローガンが前へ出ようとしたのを、アーサーが半歩だけ制した。
「俺が見よう」
アーサーは剣に手をかけないまま、距離を詰める。
狼は動かない。目だけが追う。
一触即発。
その間で――狼が鼻先を少し下げた。
牙を見せない。
武器を下げる仕草。
アーサーの眉がわずかに動く。
「大人しいな」
フェイが小声で言う。
「あの時とは違いますね」
ローガンは狼を見たまま、低く言った。
「とりあえずここに置く。監視を付ける」
フェイが即答する。
「私が残ります!」
「声を抑えろ」
「はい!」
抑えられていないが、本人は抑えたつもりらしい。
ローガンはエリアを見る。
「次だ」
次。つまり――本と石。
⸻
屋敷へ戻る途中、ローガンは一言も多く言わなかった。
怒っているのが分かる。怒鳴らない分、重い。
エリアは先に立って歩きながら、自分の部屋を思い浮かべた。
机の上。
布に包んだ本。
二重に包んだ黒い石。
どっちも触りたくない。
でも、隠しっぱなしにはできない。
(……まあ、こうなるよな)
⸻
エリアの部屋に入ると、空気が少しだけ落ち着いた。
食卓ほど人の目がない。
庭ほど緊張がない。
それでも、逃げ場はない。
机の上に、布包みが二つ置かれていた。
ローガンが顎で示す。
「それか」
エリアは頷く。
「うん。これが本。こっちが石」
フェイが思わず一歩前へ出かけて止まる。
「触っていいんですか、それ」
ローガンが低く言う。
「触るな」
フェイが固まる。
ローガンは続ける。
「エリアが触っていないなら、そのままの方がいい」
エリアは少しだけ安心した。
(父上、ちゃんと考えてる)
アーサーが机の上の布包みを見て、短く言う。
「……なんだこの本は」
ローガンがその本の漂わせる雰囲気に少し興味を示し、ようやくエリアを見る。
「まず」
声が静かすぎて、逆に怖い。
「謝りなさい」
エリアは一瞬だけ息を止めた。
(来た)
怒られるのは分かっていた。
だから、言い訳はしない。
椅子から立ち、頭を下げる。
「ごめんなさい」
「誰にだ」
「父上に……あと、兄上と……フェイさんにも」
ローガンが言う。
「何が悪かった」
エリアは少し考える。
でも考えすぎると逃げになる。
すぐ言う。
「ひとりで動いた」
「危ない場所に一人で入った」
「止められるって分かってたのに、黙ってやった」
ローガンは頷かない。
でも、声は少しだけ緩んだ。
「分かっているなら、次からは直せ」
「……うん」
ローガンは一拍置いて続ける。
「やったことを否定はしない」
フェイが目を見開く。
ローガンは淡々と。
「結果だけ見れば、狼は落ち着いた。石も手に入った」
「だが、相談はしなさい」
そこは強い。
「お前一人で判断するな。危険なものほど、なおさらだ」
エリアは小さく頷いた。
ローガンがさらに言う。
「一緒に行けば、もっと安全だった」
「狼はお前より強かったかもしれない」
「お前が倒れたら、誰が回収する」
言葉が刺さる。
エリアは、はい、と小さく返事をした。
⸻
アーサーが腕を組んだまま言う。
「狼が本を守っていた、というのは?」
エリアは顔を上げる。
「たぶんね」
「墓の中に本が嵌め込まれてた。狼がそこから離れなかった」
「……で、外したら吠えた」
フェイが即座に言う。
「危険なのでは?」
エリアは首を振る。
「威嚇じゃない。合図みたいなやつ」
ローガンが短く言う。
「本を持ってきた理由は」
エリアは息を吐く。
「調べたかった」
「置いておいたら、また誰かが来ると思った」
ローガンの目が細くなる。
「誰か、とは誰だ」
エリアは肩をすくめる。
「分からない。でも石があった。狼に埋められてた。偶然じゃないと思う」
アーサーが頷く。
「筋は通る」
フェイが口を開く。
「では、狼は本に執着して――」
「うん」
エリアは素直に言った。
「本を持って帰るって言ったら、付いてきた」
ローガンが眉を動かす。
「言った?」
「……言った。たぶん伝わった」
フェイは動揺している。
「通じるんですか?」
エリアは少し困って笑う。
「分からないけど、通じてる感じがする」
ローガンは短く息を吐く。
「感じ、では困る」
真っ当だ。
⸻
エリアは、そこで本音が漏れた。
「……でもさ」
ローガンが視線を向ける。
エリアは少しだけ目を逸らして言う。
「正直、かわいい、飼いたい」
一瞬の沈黙。
フェイが口を押さえた。笑いそうなのを堪えている顔だ。
アーサーは呆れたように目を閉じる。
ローガンは低く言った。
「飼うな」
即答。
「……ですよね」
エリアも即答。
でも引かない。
「じゃあ、友達ならいい?」
アーサーが噴きそうになって咳払いした。
ローガンは、すぐには答えなかった。
その間に、エリアは自分の考えを出す。
「森で好きにさせればいいと思う」
「人は襲わないで、ってお願いして」
「それで大丈夫だと思う」
ローガンが言う。
「“お願い”で済むなら苦労しない」
「安全が確認できなければダメだ」
正しい。
でもローガンは、完全否定もしなかった。
エリアが顔を上げる。
勝手にうろうろさせるな。範囲を限定して、様子見だ。間違っても街など行かせるなよ。
エリアは頷く。
「うん」
ローガンは続ける。
「それと――本と石は、お前のものではない」
言葉が重い。
エリアは反射で言いそうになる。
(僕が見つけたのに)
でも言わない。
言ったら子どもになる。
ローガンが言う。
「だが、お前が見つけた。お前が関わった」
「だから、私も関わる」
「どちらにせよ、調査は必要だ」
エリアは、はい、と返事した。
⸻
ローガンは最後に言った。
「今日の部隊の出発は止める」
フェイが目を見開く。
「えっ」
「森の異変は石が原因で間違いない」
ローガンはエリアを見る。
「お前が見つけたものの価値を、まず整理する」
「記録して、必要とあれば夜にもう一度森を確認する」
アーサーが頷いた。
「俺が行く」
フェイが背筋を伸ばす。
「私も!」
「声がでかい」
「はい!」
エリアは、机の上の布包みを見た。
重い。
でも、ここまで来たら一人考えるものじゃない。
――それが分かっただけでも、今日の意味はあった。
窓の外。鐘楼の方角に目をやる。
遠いから狼の反応は見えない。
でも、いるのは分かる。
(待ってて)
エリアは心の中で言った。
ローガンが言う。
「昼までに、全部話せ。墓の場所も、見たものも、順番に」
エリアは頷く。
「うん。……全部言う」
少しだけ、胸が軽くなった。
まだ怒られている。
でも、終わりじゃない。
ここから先の方が、たぶん面倒で――面白い。




