第23話 本と狼
石の蓋の隙間から、冷たい空気が漏れてくる。
土の匂いじゃない。
古い布と、乾いた紙の匂い。
中にあったのは――骨でも宝でもなく、一冊の本だった。
石の枠に嵌め込まれるように、ぴたりと収まっている。
表紙は硬い。革のようで、木のようでもある。濡れてもいないのに艶がなく、手を伸ばすと、指が避けたくなるような冷たさがあった。
触れると本が纏っていた魔力が霧散した。
「……なんだこれ」
狼はすぐ横に座り、動かない。
今は、牙も爪も見せない。
ただ、その本を見ている。
(守ってたの、これか)
エリアは袋の中の魔石を思い出す。
あれは霧を吸っていた。狼の胸にも埋まっていた。
狼に魔石を埋めた者は本の存在は知らない?
石が置かれた。狼に石を埋めた。
でも狼はここにいて、離れなかった。
そんな考えが、頭の中で勝手に繋がっていく。
考えすぎる癖が出そうになって、エリアは一度息を吐いた。
「とりあえず、見てみるか」
誰に言ってるのか分からない。
狼は返事をしない。
でも目を逸らさない。
許可でも拒否でもない。
ただ、見ている。
エリアは直接触らないことにした。
水だ。
指先に薄い水膜を作り、表紙の縁をそっと包む。
水越しなら触れる。嫌な感触も少し薄まる。
(なんか……重い)
思った以上に、ずしりとした。
本なのに。
枠にぴったり噛み合っている。
無理に引けば、石の縁が欠けるかもしれない。
「うーん……」
エリアは水を増やし、枠の隙間へ流す。
滑らせるため。摩擦を減らすため。
ゆっくり。
少しずつ。
ぎ、と音がして、本がわずかに動いた。
その瞬間。
狼が、吠えた。
低い。
長い。
腹の底から森を震わせる声。
エリアの背筋がぞくりとする。
「え、なに……」
吠え声は威嚇じゃない。
牙も向けていない。目もエリアではなく――墓の中を向いている。
まるで合図みたいに。
森の奥で、鳥が一斉に飛び立った。
どさ、どさ、と乾いた羽音が遠くで重なる。
(……大丈夫か?)
エリアは動きを止めた。
狼の吠え声が消えると、森が静まり返る。
静かすぎるほどに。
「これ、抜いたらダメなやつ?」
小声で言う。
狼は答えない。
ただ、エリアの手元を見る。
それから、墓の中。
そしてまた、エリアを見る。
――迷っている目。
エリアはそれを見て、逆に落ち着いた。
(どうしたらいいか迷ってる?)
守る役割はある。
でも、今この状況は想定外。
石が埋め込まれ、暴走させられた。
守れなくなる寸前だった。
だから狼は――“どうするべきか”を、僕に渡している。
そんなふうに考えてみる。
「……じゃあさ」
エリアは水膜越しに本を少しだけ持ち上げたまま、狼に言う。
「持ってくのはダメ?」
狼の耳がぴくりと動く。
エリアは続ける。
「ここに置いたら、また誰かが来るでしょ」
「僕が持って帰って、調べる。……で、戻す」
言いながら、自分でも無茶だと思った。
調べるって何を。でも中身の確認くらいはできるだろう。
何も知らずに置いておくよりはマシだ。
狼は動かない。
ただ、目だけが揺れる。
エリアは少し笑ってしまった。
「……困ってるのはわかるよ」
本を少し戻す。
一旦、落ち着こう、という合図。
狼の呼吸が静かになる。
エリアは墓の蓋の隙間に水を流し、本の周囲をもう一度観察した。
枠。
固定の溝。
“外せるように作られている”。
偶然じゃない。
(じゃあ、持ち出す想定はある)
持ち出す者がいる。
戻す者がいる。
そのために守りがいる。
狼の役割が、少しだけ見えた。
「……よし」
エリアは決めた。
持って帰る。
ただし、狼が納得していないなら無理にしない。
最後にもう一度、狼を見る。
「とりあえず持ってくよ。……それでいい?」
狼は答えない。
でも、ゆっくりと立ち上がり、墓の前から半歩だけ退いた。
退いた、というより場所を譲った。
エリアは息を飲む。
(よさそうだな)
エリアは水膜を厚くし、本を慎重に引き抜いた。
完全に外れた瞬間、狼が短く吠えた。
さっきの長い声じゃない。
短い、低い一声。
エリアは本を抱える。
重い。ずしりと腕にくる。
そのまま水膜で包み、布で巻く。
中が濡れないように、でも触れないように。
「……よし」
墓の中は空になったわけじゃない。
枠の奥にまだ何かある気がする。冷たい空気が残っている。
でも、とりあえずここまで。
エリアは本を抱えたまま、墓の蓋を戻す。
完全には戻せない。
でも水で滑らせ、位置だけ合わせる。土を被せ、草を整える。
遠目には分からない程度に。
狼がその横にからこちらにくる。
もう守る位置ではないのか。
「……どこにいくの?」
狼は森の奥を一度だけ振り返り、それからエリアを見る。
迷いはある。
でも、目は澄んでいる。
狼はゆっくり歩き出した。
エリアの横へ。
距離は近すぎない。
でも離れない。
(……え?まじか)
エリアは笑いそうになって、笑えなかった。
これ、見つかったら終わる。
父上に。兄上に。フェイに。
狼を連れてきたなんて言ったら、絶対止められる。
でも――
本を抱えた腕がずっしり重い。
狼が鼻先で、エリアの腕の下に頭を差し入れた。
持ち上げるわけじゃない。
支えるだけ。
「……賢いんだね」
エリアは小さく呟いた。
森の出口へ向かう。
朝の光が強くなる。
遠くで鳥が鳴き始める。
立ち入り禁止の杭が見えたところで、狼が止まった。
一歩、外へ出ない。
境界。
ここから先は人の匂いが濃い。
狼にとっては危険だ。
エリアは立ち止まり、狼を見る。
「ここまで?」
狼は答えない。
でも、目は待ってと言っている。
エリアは本を抱え直し、袋の魔石を確かめた。
「……分かったよ」
一歩、境界の外へ。
エリアは振り返って、言った。
「おいで。……一緒に行こう?」
狼の耳がぴくりと動いた。
それだけで十分だった。
エリアは歩き出す。
本と、石と、狼と。
朝の空気は澄んでいるのに、胸の奥だけが妙に重かった。




