第22話 魔狼と狼
魔狼は、動けなかった。
五本の水のベルトが木と木を結び、巨体の動きを押さえている。狩り用に作った“逃がさない形”は、こういう時に強力だった。
(きついかもな、でも――今は解けない)
目の前の牙は、まだ十分に届く。
魔狼は唸らない。だが喉の奥で空気が擦れる音がする。黒い石が脈打つたび、瞳の焦点が揺れる。
エリアは一歩も詰めず、胸元だけを見た。
黒い石。
毛の奥で鈍い光を返している。
それを見ていると、湖で見つけた石を思い出す。霧が吸われていく、あの妙な流れ。
(……あれと同じだ)
魔狼は突然、前脚を地面に打ち付けた。
怒りじゃない。苛立ちでもない。体の内側が痙攣して、勝手に動いてしまう感じ。
次の瞬間、魔狼が跳ぼうとする。
「っ」
木屑が飛ぶ。暴れた衝撃が森に残響を落とす。
でも、魔狼はその場から動けない。
だがこちらに向かってこようと暴れてる訳ではないように見える。
(やっぱり向こうに戻りたがってる?)
エリアは短く息を吐く。
「よし」
木々に仕掛けた水の縄の締め付けを強める。
魔狼が暴れる。
だが――暴れ方が変だ。
暴れてはいるが、千切ろうとしてない。千切ろうとして止めてを繰り返している。
まるで、なにかに抵抗するみたいに。
エリアは一歩、距離を取ったまま、胸元の石を見る。
(……取れれば、落ち着く)
どうやって外す?
付けられたなら外せるかもしれない。
でも、石が肉と一体なら無理だ。
魔物の体内で育った可能性もある。そういう話は本で読んだ。
ただ――湖の石は“置かれていた”。
(なら、外から入れた可能性のほうが高い)
「まあ、やるしかないか」
エリアは手をかざす。
拳ほどの水球を作り、石の上へそっと滑らせる。
瞬間、ぐっと引っ張られる。
「おっ」
吸う力。
だが抵抗できる程度だ。水球の形は崩れない。
包んだことで分かる。
石は“吸う”だけじゃない。
放っている。
濁った魔力が薄く漏れていて、魔狼の体内へ染み込んでいる。
でも――
(繋がってない)
肉が石を避けている。
周囲に微かな空間。異物を押しのけた隙間。
(よし。外せそう)
二重に水膜を張る。吸われても残るように。
ゆっくり、引く。
石が抵抗するように光る。
魔狼の肩が震える。
でも、噛みつこうとはしない。唸りも出ない。
ただ、苦しそうに息を吐く。
ずるり。
肉の境界を越えた瞬間――魔狼の脚ががくんと落ちた。
巨体が地面に沈む。
吠えない。暴れない。力が抜けたみたいに、胸から落ちる。
「……っ」
エリアは反射で後ろへ下がった。
ベルトは解かない。まだ危ない。
ただ、さっきまでの“張り詰めた圧”が、ふっと薄くなった気がした。
手の中の黒い石は、水膜の内側で弱く脈打っている。
なんとなく触りたくない。とりあえず布で二重に包んで袋へ落とす。
そのまま数歩下がり、息を整える。
狼は動かない。
肩が上下している。荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。
狼は意識を失っているようだ。
エリアも少し休むことにした。
――時間が、少し進んだ。
朝の光が木々の隙間から差し込む。
露が乾き始める匂いがする。
エリアはベルトを解除した。
もう必要ない。狼からは敵意もなにも感じない。
凶暴な印象はなく、禍々しい雰囲気も無くなった。
むしろもふもふの大きな狼。
「……起きろとは言わないよ」
小さく呟いた。
でも、もふもふしてやろう。
そのとき。
狼が、ゆっくりと顔を上げた。
赤い目。
さっきまでの濁りが薄い。
完全に澄んだわけじゃない。だが、焦点が合っている。
そして――
魔狼は、鼻先を少し下げた。
牙を見せない。
武器を下げる仕草。
さらに一度だけ、目を閉じる。
エリアは息を飲む。
(……なんだ?)
魔狼は喉の奥を小さく鳴らし、もう一度息を吐いた。
そのまま伏せる。胸元を前脚で押さえるようにして、じっと動かない。
(どうしたんだろう)
エリアは距離を保ったまま頷いた。
「大丈夫だよ。落ち着いて。」
しばらくして。
魔狼は、ゆっくり立ち上がった。
――その動きが、もう“暴走”じゃない。
赤い目が、エリアを見る。
次に、背後を見る。
それから数歩、奥へ進む。
止まる。
振り返る。
また数歩。
また振り返る。
誘導。
「……ついてこい、ってこと?」
エリアは地面に小さく水滴を落として、矢印を作った。
→?
魔狼は一歩進んだ。
エリアはゆっくり歩き出す。
歩調を合わせるように、魔狼――いや、もうこれは狼だ――が先を行く。
木々の間を抜けるたび、空気が少し湿る。
霧ではない。だが森の匂いが濃い。
狼は時々止まり、振り返る。
エリアが遅れると待つ。急かさない。
しばらくして、狼が立ち止まった。
そこだけ地面が、わずかに盛り上がっている。
草が短い。
踏み固められた跡ではないのに、整っている。
狼はそこへ座る。
今度は“意志”で。
エリアはしゃがみ、指先で土を払った。
硬い感触。
石。
白っぽい切り出し石が、土の下から覗いた。
「……墓?」
狼は動かない。
ただ、見せたかったのか。
袋の中で、黒い石が――弱く、しつこく脈打った。
どくん。
まるで、まだ終わっていないと言うみたいに。




