第21話 修行中の壁
明け方の森は、思ったより静かだった。
夜の冷えがまだ地面に残っている。草の先に露が光り、踏むたびに小さな音がする。
エリアはいつもの軽装だった。短剣、簡素な袋、水筒。狩りに行くときと変わらない。
「狩りに来たって感じかな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
兄も父も森に入る。自分が行く必要はない。そう思っていたはずなのに、足は森の奥へ向いていた。
昨日の話が、頭の中で繰り返される。
森の奥にいた巨大な狼。
胸に埋まった黒い石。
魔物。
本で読んだ知識を思い出す。
動物や生き物が過剰な魔力を取り込み、変質した存在。
理性が薄れ、攻撃性が増す。
高濃度の魔力域では発生しやすい。
なら。
あの狼は――魔石によって無理やり魔力を流し込まれているのではないか。
湖で見つけた石は、霧を吸っていた。
あの石を体内に入れられれば、魔力は過剰になるのかも。
短絡的なのか。でもそうだったら。
「なら討伐対象だな」
自分でそう言ってみる。
危険。
理性が薄い。
人を襲う可能性がある。
大人たちの判断は正しい。
でも。
森の奥で見たと聞いた話。
自分から攻めなかった。
同じ場所に戻った。
威嚇だけ。
だが、身体が痙攣して暴走する。
それは本当に“襲ってきた”のか。
それとも、なにかに抗っていたのか。
エリアは歩きながら、自分の手を見下ろす。
去年から、森で狩りをするようになった。
水を刃にする。
水を拘束に使う。
水を圧縮し、貫く。
強くなった。
でも、強くなるほど思った。
(これ、ちょっと危ないよな)
薄く、鋭くすればするほど。
切断力が上がるほど。
もし人に向けたらどうなる。
父上は言った。
強くあってほしいと。
それだけの願いだった。
でも剣術も魔法もやればやるほどそう思うようになった。
例えば、アーサーとの訓練で使った魔法もそうだ。
水の刃で人を斬る技。
誰を斬ろうと言うのか。
練習するにつれ、上手くなるに連れてそう思うようになっていった。
倒すために?
守るために?
ここ数ヶ月、分からなかった。
でも昨日、少しだけ分かった気がした。
強いって。
倒せるとかじゃない。
選べることなのか。
討つしかない状況で。
討たない道を選べる。
助けるという選択肢を持てる力。
それが、今自分の思う強さかもしれない。
なんか野蛮じゃないし。
みんなできるなら、その方がいいに決まってる。
「……なら、やるしかないよな」
大げさな決意じゃない。
ただ、やるべきことを決めただけ。
エリアは走り出す。
露が跳ねる。
呼吸は乱れない。
足取りは軽い。
三年前なら、この距離で息が上がっていた。
今は違う。
立ち入り禁止の杭が見える。
古びた木の目印。
子供のころ、ここから先へ行くなと言われた場所。
エリアは立ち止まらない。
一歩、越える。
空気が変わる。
音が少し減る。
鳥の声が遠い。
森の奥は、思ったより静かだ。
数十歩進んだ、そのとき。
風が止まった。
気配。
右。
視線を向ける。
そこに、いた。
巨大な狼のような魔物。
肩の高さはエリアの胸ほど。
黒い毛並みは光を吸い込むように深い。
胸元に、黒い石。
淡く、不気味に脈打っている。
魔狼は唸らない。
ただ、立っている。
同じ位置。
背後に何かを守るように。
赤い目が、エリアを捉える。
昨日の話のような狂気だけではない。
焦点が揺れている。
苦しみか、怒りか、
それでも、理性が消えてはいない色。
エリアは構えない。
とりあえず、敵意は出さない。
水も出さない。
ただ、立つ。
魔狼も、飛びかからない。
距離は近い。
互いの呼吸が聞こえるほどに。
赤い瞳と、視線がぶつかる。
森は静まり返っていた。
魔狼の目が、ふっと濁った。
次の瞬間。
地面が爆ぜた。
黒い巨体が一直線に跳ぶ。
「っ!」
速い。
エリアも飛び退いた。
咄嗟に出した防御の水膜を厚くする余裕はない。
着地で転がる。
牙が空を裂き、さきほどの横の木を抉る。
乾いた破裂音。
木屑が舞う。
魔狼は着地と同時に振り向く。
迷いがない。
だが――目はまだ揺れている。
(やっぱりなんか意識が曖昧な感じだ)
エリアは距離を取る。
三歩。
四歩。
深追いはしてこない。
魔狼は戻っていく。
さっきいた同じ場所。
守っているのかなんなのか。
「よし」
短く息を吐く。
攻撃はできる。
切断も可能。
だが、それは選ばない。
無闇に命を取るべきではない。
指を鳴らすように軽く弾く。
水が地面を走る。
透明な帯が、木々へ絡みつく。
五つ。
狼を囲むように。
五本の木の幹に付けていく、水の輪。
ベルトのように、細く、強く。
狼と再び目が合う。
だが、エリアはもう動いている。
木の間を抜ける。
水の帯がわずかに光る。
まだ発動していない。
準備だ。
「こんなもんかな」
掌に、薄く水を集める。
狼が低く唸る。
石が脈打つ。
森の空気が張り詰める。
エリアは、静かに笑った。
「まずは大人しくしてもらわないとな」
次の瞬間、魔狼が再び跳ぶ。
水の輪が、わずかに震えた。
エリアが手をかざす。
魔狼に五つの水のベルトが張り付く。
先程の木に付けたベルトそれぞれが魔狼のベルトと繋がる。
水の管が何重にも編み込まれた、縄のようなものが繋がっていく。
魔狼が暴れ出す。
飛び跳ねようと。
だが動けなくなる。
「これは特別製なんだよ」
狩りをした。
なるべく安全に捕まえようとした。その結果できた技だ。
編み込まれた水の管を捻っていく事で拘束力を高めていく。
魔狼に巻かれた五本のベルトは継ぎ目のない少し厚い硬質ゴムのような水。
いつも森ならこれですべての動きを封じれた。
獲物がデカいなら、木に繋ぐ本数を増やせばいいだけだ。
暴れてはいるがもう相当動けなくなっている。
「落ち着いてよ、痛くはしないからさ」
すでに痛そうではあるが。
近づいて様子を見ようと前に出る。
「そろそろ大丈夫かな」
狼の胸の石が黒く光る




