第20話 違和感
森は静かだった。
音がないわけではない。
風は通る。枝も揺れる。
だが、生き物の気配が薄い。
「……妙だな」
アーサーが呟く。
フェイは周囲を見回し、声を張る。
「足跡はあります! ですが――新しいものが少ないようです!」
そのとき、前方の藪が激しく揺れた。
小型の魔物が三体、転がるように飛び出してくる。
黒い皮膚、歪んだ牙。
「来ます!」
フェイが構える。
だが魔物は隊を見ない。
一直線に横をすり抜け、森の外へ走り去る。
もう一体。
また一体。
全てが奥から外へ。
「……逃げているな」
ローガンが言う。
「奥に何かいる」
アーサーは進む。
森の空気が重くなる。
そして、それは現れた。
巨大な狼。
人の胸ほどの肩高。
黒い毛は光を吸い、赤い目が隊列を睨む。
牙を剥き、低く唸る。
だが――動かない。
半歩、前へ出る。
また半歩、戻る。
常に同じ位置を保っている。
背後に、何かを隠すように。
「来い」
アーサーが構える。
狼は飛び込まない。
威嚇のみ。
しかし次の瞬間、身体が震えた。
まるで内側から何かに押されたかのように。
そして跳ぶ。
速い。
アーサーが受ける。衝撃が腕を震わせる。
狼は一撃を放つが、深追いしない。
すぐに後退する。
そして――元の位置へ戻る。
また同じ場所。
また同じ立ち位置。
「……あそこになにか」
フェイがあそこになにかあるのかと感じが確信はもてない。
狼が再び唸る。
目は赤いが、どこか焦点が揺れている。
牙を剥く。
だが踏み込まない。
身体が痙攣する。
そして、また跳ぶ。
今度は明らかに無理な動き。
暴走。
アーサーが斬る。
胸元を浅く裂く。
その瞬間、見えた。
毛の奥、肋のあたりに黒い石が埋まっている。
狼は吠える。
怒りというより、苦鳴。
後退する。
だが逃げない。
また同じ場所へ戻る。
「……まて、追う必要はない」
アーサーが言う。
「目的は調査だ」
狼はその位置から動かない。
守るように、そこに立ち続けていた。
⸻
同じ頃。
エリアは湖にいた。
森には行かなかった。
兄上も父上もいる。
自分が行く必要はない。
だが、湖の端で足を止める。
なんだろう、いつも見えるあそこの魔力霧が薄い。
完全に消えたわけではない。
だが、一部だけ、削られている。
「気になるな」
近づく。
地面に黒い石。
小さく、艶があり、冷たい光を持つ。
霧が、そこへ吸い寄せられている。
風ではない。
流れている。
エリアは触れない。
ただ観察する。
(森の魔物が増えた)
(霧が減ってる)
(石が吸ってる)
繋がる。
でも、まだ分からない。
「……とりあいず報告かな」
踵を返す。
⸻
夜。
屋敷の一室。
森の報告が終わったところだった。
「胸に黒い石が埋まっていた」
アーサーが言う。
「狼は自分からは来なかった。だが、石の影響に抵抗しているようにも見えた」
ローガンが腕を組む。
「討伐する」
当然の判断。
そのとき、扉がノックされる。
「入れ」
エリアが入る。
「父上」
「どうした」
「湖の近くに黒い石があった。霧が吸われてた」
沈黙。
アーサーの視線が動く。
「同じものか」
エリアは肩をすくめる。
「同じ物?」
それ以上は言わない。
大人たちが話す。
討伐。危険。対処。
森での出来事をエリアは黙って聞いている。
狼は、自分からは来なかった。
同じ場所に戻った。
石が埋まっていた。
湖の石は霧を吸っていた。
(石が原因なら)
(狼は……)
口を開く。
「……あのさ」
全員が見る。
エリアは少し迷う。
「助けられないの?」
それだけ。
理屈は言わない。
部屋が静まる。
ローガンが低く言う。
「魔物だぞ」
「うん」
エリアは頷く。
それでも、続ける。
「でも、あの石がなければ、違うかもしれない」
沈黙。
アーサーは何も言わない。
フェイが小さく息を吸う。
答えは出ない。
ただ、疑問だけが残る。
狼は討つべきか。
それとも。
エリアは視線を落とす。
まだ分からない。
でも――
何かが、おかしい気がする。
部屋の空気は重かった。
「危険性が高い以上、放置はできん」
父の声は静かだったが、決定の響きを持っていた。
「討伐する。石も含め、処理する」
フェイが背筋を伸ばす。
「了解です。部隊は明朝再進入可能です」
アーサーは少しだけ視線を落としたあと、頷いた。
「俺がやろう」
話はそれで終わった。
誰も声を荒げない。
誰も感情をぶつけない。
それが、大人の決め方だった。
エリアは何も言わない。
言えることは、もうない。
狼は魔物だ。
危険であることに違いはない。
ただ実際に見てないからだろうか。
石が原因な気しかしない。
だが“かもしれない”では命は預けられない。
理屈としては正しい。
(正しい、けど)
狼が戻った場所。
何度も。
攻撃せず、戻った。
赤い目の奥に、一瞬だけ揺れた焦点。
それは、“敵”だったのか。
父たちの話が終わり、席が立たれていく。
エリアは最後まで動かなかった。
(助けられないの?)
自分で言った言葉が、胸に残る。
誰も否定はしなかった。
だが、肯定もしなかった。
それが答えだ。
エリアはゆっくりと立ち上がる。
廊下を歩く。
足音がやけに軽い。
三年前なら、この廊下を歩くだけで息が上がっていた。
今は違う。
(行ける)
そう思った瞬間、自分で少し驚く。
怖くないわけじゃない。
でも。
(石が原因なら)
(石を取ればいい)
(水なら)
それだけの話だ。
討伐が正しいなら、それでもいい。
でも――
その前に。
一度だけ。
確かめたい。
部屋に戻り、窓を開ける。
夜の森は静かだ。
遠くに、かすかな風の音。
エリアは手を握る。
「……勝手にやりたくなってきたな」
小さな声。
誰にも聞こえない。
明日の討伐より、少しだけ早く動けばいい。
助けられるなら。
それでいい。
エリアは灯りを消した。
瞳だけが、暗闇で静かに光っていた。




