第10話 波と粒
宿の食卓には、鹿肉の煮込みが並んでいた。
深皿に盛られた肉は、ほどよく火が通り、湯気と一緒に香草の匂いが立っている。
添えられた根菜と、焼き色のついた黒パン。
「わあ……」
ラミアが、素直に声を上げた。
「おいしそう」
「では、いただこうか」
アルバートが言い、三人で手を伸ばす。
エリアは一口食べて、少しだけ目を見開いた。
(……うまい)
鹿肉特有の味はあるが、硬さはなく、噛むとちゃんと旨味が出る。
気取った料理ではないが、腹にくる味だった。
「おいしいね」
ラミアが言う。
「鹿肉って、もっと固いと思ってた」
アルバートが答える
「ここは下ごしらえが上手だ」
エリアは予想通りだとニコニコしている。
「マーニーは腕がいいしいつも美味しいんだ」
エリアは口いっぱいに頬張りながら、もう一口食べた。
今日は、食べることが負担になっていない。
「効果は、出ているようだね」
向かいでアルバートが言った。
「一時的だけど、今は流れがいい」
「はい」
エリアは素直に答える。
「いつもより、楽です」
「なら、今のうちだ」
アルバートはそう言って、食卓の上で手を差し出した。
「食事しながらで構わない。
少し、こちらを見てご覧」
エリアはスプーンを置き、視線を向ける。
触れない。
だが、あの時と同じ感覚が、静かに来た。
アルバートの魔力が、ゆっくりと流れる。
「……あ」
エリアの中にある“大きなもの”の端が、わずかに変わる。
厚みが、薄くなる。
すると、
小さな粒。
それより、さらに小さな粒。
大小が交互になって、道へ流れていく。
一定の間を保ちながら。
「……これ」
エリアは、思わず口にした。
「波?」
「そう、粒と波だ」
アルバートは穏やかに言った。
エリアは、その流れをじっと追った。
(……難しそうだな)
そう思う一方で、
(でも……)
流れる“間”の感覚。
湖で、水面を見ていたときと、よく似ている。
「……この感じ」
エリアはぽつりと言った。
「知ってます」
ラミアは少し驚いた、魔法も知らず魔力も知らない。なのにあの感覚を理解しているんだと。
皿が片づけられ、卓の上には木杯だけが残った。
「ねえ」
ラミアが言う。
「さっきのやつ、私もやってるんだ」
「同じこと?」
「うん。
大きいのと小さいのを交互に流すやつ」
「最初は全然できなかったけどね」
「……できるようになる?」
「なるよ。毎日ちょっとずつだけど」
ラミアは迷いなく言った。
「一緒にやる?」
その誘いは、散歩にでも行くような軽さだった。
「一人でやるより、楽しいよ」
エリアは少し視線を逸らす。
「うーん……迷惑じゃなければ」
「ならないよ」
ラミアは笑った。
「どうせ私もやるし」
アルバートは二人を見て、静かに頷いた。
「いい考えだ」
「訓練は、続けられなければ意味がない」
「楽しいというのは、立派な理由だ」
「調査はすでに私一人で進められる段階だ」
「無理はしないように」
ラミアは短く頷く。
「はい、先生」
宿を出ると、外はすっかり夜だった。
「今日は、ちょっと食べすぎたかも」
ラミアが言う。
「鹿肉、おいしかった」
「うん、そうだね」
エリアは頷いた。
「久しぶりに、ちゃんと食べられた気がする」
「それ、いいことだね」
ラミアはあっさり言う。
「調子悪いときって、味しなくなるし、そもそもあんまり食べたいとも思わないよね」
エリアは少し驚いたが、彼女も疲れることもあるだろうと納得した。
アルバートが少し後ろを歩く。
宿の前で別れる前、エリアは何も言わずに中へ戻り、三人分の支払いを済ませた。貴族の子としての矜持は持ち合わせている。
「ごちそうさま」
「はいはい、ぼっちゃん」
マーニーは笑った。
家に戻ると、父が待っていた。
「遅い」
「外で食べてきたそうだな」
「はい」
そのとき、母が口を挟む。
「今日は、なんだか元気そうね」
父はエリアを見て、少し考える。
「……先に行きなさい」
部屋へ向かう背中を見送りながら、父は母に言った。
「最近、湖に通っていた」
「学者らしき人物に会っているようだ」
「変化は感じていたが」
「でも」
母は穏やかに答えた。
「悪い変化には見えないわ」
父はしばらく黙り、
「……もう少し、様子を見ようか」
そう言った。
その夜、エリアは布団に入りながら思った。
体は、まだ少し軽い。
考えも、ちゃんと続いている。
――悪くない。
そう思えたのは、久しぶりだった。




