第1話 挿絵の木
古い本は、棚の一番上にあった。
男爵家の書庫は広くないが、天井だけはやけに高い。
七歳のエリアにとって、その高さは「背伸びすれば届くかもしれない」という、いちばん厄介な距離だった。
踏み台に乗る。
板が小さく軋んだ。
「エリア様、お手伝いいたしましょうか」
背後から、静かな声。
使用人のメイド、メルだ。
「大丈夫。今、計算中」
「……何の計算でございますか」
「落とさず、音を立てず、父上に見つからずに取る計算」
メルは一瞬だけ黙り、それから半歩近づいた。
「では、その計算が破綻した際に備えて待機いたします」
支える準備はするが、手は出さない。
必要になるまで動かない。メルはいつもそうだ。
エリアは背伸びして本を引き抜いた。
ずしりと重い。
落とせば音がする。
音がすれば父が来る。
父が来れば「読む前にやることがあるだろう」と言われる。
そう言われると、やる気が消える。
やる気が消えると、体力も一緒に消える。
体力が消えると、結局、椅子が必要になる。
面倒な連鎖だ。
だから、慎重に下ろす。
床に座り、背を棚に預ける。
メルは何も言わず、すぐ横に椅子を置いた。使うかどうかはエリアに任せる、という距離。
本を開くと、紙とは違う匂いがした。
乾いた革と、土と、古い草。羊皮紙の匂いだ。指先に、少しだけ吸い付く感触が残る。
文字は細く、癖のある筆致。
古い言葉も多い。エリアは全部は読まない。読めないところは飛ばす。重要なのは、絵だ。絵は嘘をつかない。
――魔力とは何か。
問いかけだけが書いてある。
答えは、ない。
魔力はこの世界に当たり前に存在する。
火を起こす人がいる。水を操る人がいる。傷を癒す人もいる。だから「ある」。
けれど「なぜあるのか」は、誰も知らない。
神の加護。血筋の力。土地の性質。
どれもそれっぽい。だがエリアは、それっぽい説明が好きじゃない。役に立つかどうかがすべてだ。
ページをめくる。
挿絵が現れた。
世界の中心に、一本の巨大な木。
幹は太く、先が見えない。枝は広く、空を覆い、影は地平まで伸びている。絵なのに、そこに立つだけで疲れそうな木だ。
根元には少女が一人、しゃがみ込んでいる。
土を整え、小さな花を植えている。花は控えめで、色も地味だが、なぜか視線が引っかかる。
エリアは、視線を上に戻した。
枝の間に、丸いものがいくつか描かれている。
葉に紛れて、注意しなければ見落とす程度の形。
さらに、根元のあたり。
花の近くの地面にも、似た形が転がっているように見える。
(……実、みたいだな)
思考が広がりかける。
だが、すぐに止める。
説明がない。
説明がないなら、考えても仕方がない。
エリアは視線を外した。
無意識に、もう一度だけ挿絵を見てから。
「不思議な絵でございますね、エリア様」
メルが本を覗き込み、静かに言う。
「でかすぎる木だ」
「はい?」
「こんなのあったら邪魔だと思う」
メルは少しだけ微笑んだ。
「偉大なものは、時に扱いづらいものでございますね」
「じゃあ俺には向いてない」
「何がでございますか」
「英雄。俺は語り部の器だから」
エリアは、言ってから一拍だけ置いた。
メルの反応を確認する。
メルは一瞬きょとんとし、それから口元を押さえた。
「……大変、高度なご冗談でございますね、エリア様」
成功だ。
伝わる相手にだけ伝わる冗談は、盾になる。
ページを閉じる。
挿絵の木は紙の中に戻り、ただの絵になる。
――この時点では、何の意味も持たない。
•
その日の昼前。
「街へ行くの?」
母がそう言ったのは、剣の包みを見たからだ。
「うん。訓練用の剣、できたって」
父の考えは一貫している。
自分で使う剣は、自分で受け取るものだ。
その考えを、母も否定しない。
ただし――
「メル」
母は迷いなく言った。
「はい、奥様」
「一緒についていって。エリア一人では心配だから」
「承知いたしました」
エリアは口を開きかけたが、閉じた。
反論するだけ体力が減ると分かっている。
街道を歩く。
エリアは剣を抱えている。包まれていても、重い。
最初は平気だった。
だが数分で腕がじんと痺れ、肩が重くなる。
(重さは分かってた)
(問題は、距離だ)
呼吸が浅くなる。
歩幅が少しずつ狭くなる。
立ち止まりたい。
でも立ち止まると、再開がつらい。
エリアは歯を食いしばる。
自分の剣だ。
自分で使うものだ。
なら、自分で持ち帰る。
途中、指が勝手に地面を叩き始める。
考え込むと出る癖だ。
(持ち方が悪い)
(重心をずらせば、少し楽になる)
(体力は減るけど、減り方は遅くできる)
歩きながら、やり方を組み替える。
少しだけ、楽になる。
「エリア様」
メルの声が、すぐ横から聞こえる。
「……まだ、大丈夫」
声が少し掠れていた。
「はい。ただ、無理をなさらぬ範囲で」
屋敷に戻るころには、腕が震えていた。
剣を壁に立てかけ、ようやく椅子に座る。
視界が少し暗くなる。呼吸が落ち着くまで、数拍。
父が近づいてきた。
「自分で持ってきたか」
「……うん」
「そうか」
それだけ言って、父はエリアの頭を軽く撫でた。
訓練の時とは違う、柔らかい手だ。
「無理はするな。だが、逃げるな」
エリアは頷いた。
(逃げない)
(ただ、別のやり方を探す)
夜、布団に入って天井を見る。
「メル」
「はい、エリア様」
「体力って売ってなかったっけ?」
「……もし売っておりましたら、必ずお探しいたします」
灯りが落ちる。
挿絵の木と、丸いものの影が、頭の片隅をよぎる。
だが、まだ意味はない。




