水神の祟
分厚い雲が空を覆う、月も星も見えぬ夜だった。
山頂から突如昇った長い影が雲間に消え、直後に雷鳴が轟く。
降り出した雨は次第に激しさを増していった。
山から流れ出る川はいつもの穏やかさを失い、下るにつれ轟々と周りのものを呑み込んでいく。
一晩中唸り声のように響いていた水音は、日の出と共に嘘のように鳴りやんだ。
空は晴れ、川には何事もなかったかのように澄んだ水が流れ、濁流に呑まれたはずの山の木々は昨日までと変わらぬ佇まいで朝日を浴びている。
ただその山間にあったはずの小さな村の姿だけが、忽然と消えていた。
・・・・・・・・・・
粗末な家の中に、ゴリゴリと石をこすり合わせるような音が響いている。
火のついていない囲炉裏に向かって座る男は、背を丸め一心に作業をしていた。
乾燥させた葉をすり鉢で細かくすり潰しては、丁寧に紙に包んでいく。
六つ作ったところで手を止め、丸まった背を広げるように伸びをした。
医者などいない小さな村。薬草に詳しい男は皆から頼りにされていた。
村人たちの日々の不調を聞いて症状に合った薬を用意する。
父親がずっとやってきたことを引き継いだだけとはいえ、男自身も己の役目として誇りと責任を持っていた。
男の住む山間の村は貧しく、繰り返す畑作に痩せてしまった土地では満足に作物も実らない。
しかし山と、山から流れてくる川の恵みで、村人たちは飢えることなく暮らしていた。
決して贅沢な生活ではないものの、季節の実りに寄り添いながらの暮らしは充実感に満ちている。
豊かな山と清らかな川は土地神様のお陰だと、村人たちは時折中腹の小さな祠を訪れては祈り、余りある感謝と僅かばかりの供物を捧げていた。
ある夏の日、村の若者が男の下に竹の水入れを持ってきた。
最近になって山の祠の近くに見つかった新しい湧き水。美味しいと評判のそれを、なかなか中腹まで行く暇のない男のために汲んできてくれたのだ。
礼を言い受け取った男は、若者が帰ってから中身を湯呑みへと出してみる。
竹筒の中に入っていたのは、濁りも混ざりものもない清らかな水だった。
顔を近付け匂いを嗅ぐが、何も感じない。
口をつけ、少しだけ含む。
汲んでから暫く経つだろうに、まず感じるのは冷たさで。そこからじわりと仄かな甘みを感じた。
飲み込むとまだ体温よりも低いそれが食道、そして胃に落ちていくのがわかる。そこから身体中に染み渡るように心地よく熱を奪っていった。
暑さで疲れた身体が少し軽くなるような錯覚を覚える清涼感。
好まれるのもよくわかると納得しながら、男は湯呑みに残る水を飲み干した。
村人たちはその湧き水を土地神様からの贈り物として大切に扱った。
誰が占有することもなく、汲みに行けぬものには代わりが立ち、山と川の恵みと同じように皆で平等に分け合った。
苦い薬草もこの水でなら飲みやすい。
村人の言葉を聞き、男は薬を湧き水で飲むように伝えた。
――変化はすぐに起きた。
関節が痛い、思うように身体が動かない。そう言っていた村の老人たちが、最近は調子がいいのだと笑顔を見せるようになった。
生まれつき肺の弱かった子どもが、もう苦しくないからと他の子どもと同じように走り回るようになった。
薬を変えたわけではない。それならば、原因は水でしかなく。
村人たちはますますその水をありがたがり、祠に赴いては感謝を述べた。
しかし夏の終わりを迎える頃に、突然湧き水は枯れてしまった。
見放されたのかと心配する者、もう大丈夫だということだろうと捉える者、村人の反応は様々であったが。
それからも変わりなく、村人たちは土地神を敬った。
――最初は子どもだった。
皮膚が硬くなった気がすると相談に来た母子。
触らせてもらった子どもの腕は、乾燥したというよりも確かに硬くなったという方が相応しいと思うような様子であったが、本人は痛くも痒くもないのだと平然としている。
数日後にはひとつふたつと小さなかさぶたのようなものが現れ始めた。
皮一枚剥がれたかのような透明なそれはすっかり硬化し、まるで鱗のように全身を覆っていく。
その子どもの変化を皮切りに、村中に同様の症状が広がった。
そしてそれは男も例外ではなかった。
初めて見る症状、そしてわからぬ原因。しかし自身もその奇病に冒されたことで、男は村人たちの症状を聞かずとも把握できるようになった。
硬化した肌はやがてかさぶたのようにめくれ、鱗状に身体を覆っていく。
若干の倦怠感はあるが、痛みも痒みもなく、動くことにも支障はない。
男は手に入るありとあらゆる薬草を自ら試し、少しでも効果を感じれば村人たちにも渡した。
ずっと薬に携わってきた者として。そして何よりも村人たちのために。男は決して投げ出さず、抗い続けた。
しかしその心の強さを誰もが持つわけではない。
子どもや老人の反応が鈍くなり、やがて無気力になっていった。
薬を持っていってもへらりと笑うだけで、食事も取らずに水ばかり飲んでいる。
そしてある朝。
村人数人が姿をくらました。
立ち上がることさえ億劫そうにしていた者たちが、夜の間に気付かれることなく姿を消すようになった。
村の中はもちろん、山に入って探しても、誰ひとりとして見つからなかった。
ひとり、またひとりと行方知れずになる村人たち。
この症状と関連があるのは間違いない。しかし何がどうしてこうなっているのかはわからぬまま、それでも男は治療法の模索を続けた。
鱗のようなものは、切り落としても剥がしてもいつの間にか元に戻る。それが全身を覆う頃には、まるで空気が重さを持ってのしかかっているのかと思える程の倦怠感と、いくら水を飲んでも足りぬ程の渇きを覚えるようになった。
ぼんやりと手を止めていることに気付いては、自分がこれでどうするんだと叱咤して。ひとりでも多くの村人を救おうと足掻くものの、次第に意識が混濁する時間が長くなっていく。
まどろみのようなその間だけは重さも乾きも忘れ、ふわふわと漂うような心地よさの中、軽やかな耳障りのいい音が聞こえていた。
その音が自分を呼ぶ声だと理解できた瞬間、男は立ち上がり、ふらりと家を出た。
残夏の夜空はところどころ雲が掛かっていた。涼しくなった風に流され、月や星を薄く覆う。
薄明かりの中、男は夢現で歩を進める。
どこへ向かえばいいのかは、なぜかわかっていた。
辿り着いた川岸には人影があった。
ふらつきながら川へと入っていく見覚えある衣服に、ひゅっと男が息を呑む。
喉から漏れたのは彼の名だったのか。
自我を取り戻した男が駆け出した。ザブザブとためらいなく深場へ向かう村人の腕を掴んだ。
しかし村人は意にも介さず、そのまま男を引っ張るように淵へと向かっていく。
名を呼び引き戻そうとするが、信じられない程の力で振り解かれた。直後にとぷんとその頭が水面下に沈む。
男は慌てて水の中に揺らぐ衣服を掴むが、そこにあるはずの村人の身体は既になかった。
疑問に思う間もなく目に入ったのは、水の流れを映し取る透明な鱗。衣服の影から現れた透き通る魚は、そのまま川上へと泳いでいった。
――彼は解放されたのだ。
脳裏に浮かんだ言葉に、男は自身の姿を見下ろした。
自分も早く行かねばならない。
そんな思いに囚われる。
改めて胸元まである水の感触に気付き、男は膝を曲げた。
頭の先まで包む川の水は、あの浮遊感にも似た心地よさだった。地上で息をするように鼻から水を吸うが、苦しさは微塵も感じず。川の水は空気を追い出し身体の隅々まで広がっていく。
あの湧き水の清々しい冷たさと甘さ。それに満たされていくような気分であった。
一時の幸福感の末に、男は自分も透明な魚に変化したことを理解した。
――やるべきことはまだあるのだと知っている。
先に行った村人を追うように、自身も川を遡っていった。
山の中腹には滝があった。
大人三人分程の高さのそれを、水は白い飛沫を上げながら勢いよく落ちている。
滝壺の周りは広く水が溜まっており、その縁には死んだ灰色の魚が何匹も浮いていた。
先に着いていた村人であった透明な魚は、滝の真下でバシャバシャとその尾鰭を動かしていた。
しかし水の勢いは強く、どの方向へも一向に進む様子がない。
次第に尾鰭の動きが緩慢になっていき、止まったその瞬間。上からの滝水に呑まれ、魚は姿を消した。
暫くしてからぷかりと灰色の魚が浮いてくる。
滝水の勢いに押され淵へと流されるその様子からは、既に命はないのだとわかった。
何かに引かれるように、男であった魚も滝壺へと向かった。
この滝を登らねばならないとわかっていた。
叩きつけるような大量の水の下にその身を潜り込ませる。
人の身であった頃に感じていた重さにも似た重圧。
先程の満たされた幸福感が易易と苦痛へと塗り替えられていく中で、それでも沈まぬようにではなく、必死に上へと向かう。
自分は村人たちを助けたかった。
これを登りきれば助けることができるのだと知っていた。
容赦なく降り注ぐ水に打たれながら、それでも男であった魚は泳ぐのをやめなかった。
やがて水面下だった視点が少し上がった。
少しずつ、少しずつ。
男であったそれは一心に滝上を目指した。
徐々に上がっていく視点。
やがて滝上の穏やかな流れを目にしたその時に、男であったそれは滝下から上まで続く己の身体を知覚した。
滝の長さと同じだけ伸びた透明な身体は、滝上へと引き上げられるに従い光を帯びて銀へと変わった。
水面から持ち上がるのは竜の頭。
男であった竜は視線を一巡りさせてから、するりと空中を泳ぐように水から出た。
竜へと成った男であったそれは、川面を飛び源頭を目指す。
これで自分は村人たちを助けることができるのだとわかっていた。
山頂近くの源頭は地の隙間から滲む湧き水だった。
男であった竜はその傍らに降り立ち、水源から一口水を飲む。
自分はこの地を守る竜を引き継いだ。
そう理解した。
竜はそのまままっすぐ上空へと昇り始めた。
――最初に与える恵みはもう決まっている。
竜が昇るにつれ、先程まで晴れていた空に次第に雲が増した。
その雲の中に飛び込むと、竜の軌跡を逆に辿るように稲光が奔る。
突如激しい雨が降り始め、川の水位が爆発的に増した。
滝の下に浮かぶ魚たちを押し流した川の水は、下流で溢れた。
物が壊れる音も、人の悲鳴も聞こえない。
水は包み込むように残る村人たちごと山間の村を呑み込んだ。
雲の中から竜はその様子を見下ろしていた。
月も星も見えぬ空を映す水の闇色は、限りなく澄むからこその色。
あの幸福をもたらす、甘く柔らかな水。
苦しむ者ももういない。
痩せた土地も洗い流され蘇るだろう。
そうして、人もまた――。
くるりと一度輪を描き、竜は稲光に紛れて山頂へと姿を消した。
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