第一話 目覚めの日
ライムは至って普通の少年だった。そう、あの日までは…。
それは、ライムが5歳の時の出来事だった。
彼は庶民生まれで、両親は王都に小さな商店を経営していた。商売の規模は小さいが、ライムは何一つ不自由なく育てられた。
夏のある日、父が突然海に行こう、と提案した。カンナギシティは比較的内陸部に位置しているので、王都生まれ、王都育ちのライムは人生で一度も海というものを見たことがなかった。
家族会議の結果、全会一致で行くことが決まると、ライムは楽しみで仕方がなかった。それもそのはず、今まで海なるものは絵本の世界のものだったのだ。それから、ライムは首を長くする思いで待ち侘びた。
1週間後、ライムたち一家を乗せた馬車は海辺の街、ラルトシティへと向かっていた。王都から少し距離があることも鑑みて、2泊3日で旅行することになっている。ゆらゆらと馬車に揺られながら、海に思いを馳せているうちに、いつのまにか眠ってしまっていた。
「ほら、着いたわよ、起きて!」
母の声が聞こえ、ライムは目を擦りつつ、むくっと体を起こした。
「わ、わぁ…」
思わず目を見張った。
既に沈みかけているオレンジ色の太陽が水面に反射し、海の色を支配。ざぁーっと繰り返される心地よいメロディ。そして、どこまでも際限なく広がる水平線…。
抑えられない興奮の前に、ライムは言葉が出なかった。
「ねぇ、ちょ、ライム、待って…!」
母の制止する声を振り切って、ライムは勢いよく馬車から飛び降り、海へ向かって駆け出していった。
「ふぉっふぉ、若いって素晴らしいですなぁ!」
初老ほどの馬車の御者が愉快そうに言う。
「まぁ、ライムにとっちゃあ、初めての海だもんな」
と、走るライムの背中を見て目を細くして父がつぶやいた。
「ちょっと、そんな呑気なことばかり言ってないで…!」
と母は父を睨みつけた。
「じゃあ、僕、ライムを見にいってくるよ!」
と兄のデルクも駆け出した。
「ねぇ、デルクまで!ちゃんとライムを連れて帰ってきてね!」
と母は叫ぶも、恐らく聞こえてない模様。
「まったく、誰に似たんだか…」
とため息をつきながら、母は馬車から荷物を下ろした。
「なんだ、元気でいいじゃないか」
「じゃ、あの子たちの分までホテルまで荷物運んでよね!」
あまりにもすごい剣幕だったので父は苦笑して、大人しく荷物運びを続けた。
ライムは浜辺について、海を眺めていた。
キラキラと日光を反射する様子は、昔、王都のお店で見た宝石のように、燦燦と輝いて見えた。
「ライム、勝手に行かないでよ…!」
振り返ると、兄のデルクが息を切らしながら走ってきて、ライムの横に並んだ。
「うおっ、きれー…」
「…うん」
どのくらいの時間が経っただろうか。しばらく二人は無言で海を見つめていた。時間の経過をも忘れさせてしまう魅力が、海にはあるようだった。
「おーい、そんなに海見んのが好きか?」
刹那、どしっと重い衝撃が背中に伝わった。
見ると、父が笑って立っていた。
「ちょっと二人とも!」
少し遅れてやってきた母は、ものすごく怖い顔でライムとデルクを睨んでいる。
「ごめん、母さん」
と、デルクは肩をすくめてみせた。
ライムは直感で、この説教は長くなりそうだ、と感じて身構えた。
「まぁまぁ、二人とも無事だったんだからいいじゃないか」
「ちょっと、パパ、そんなこと言ったって、何かあってからじゃ遅いのよ!?」
母は怒りの矛先を父に変えたようだ。ナイス、父上。ライムは内心ニンマリとした。
しかし、父はお構いなく、ホテルに行こうか、と踵を返した。まだ母は何かぶつぶつと文句を言っているが、父は一向に気にしない。ライムとデルクはそれに従って行った。
「おぉ、ここからも海が見えるぞ!流石、王立ホテルだな!」
ホテルの部屋に着くや否や父が大人気なくはしゃいでいる。
「確かに、ここは良い眺めね…。でも、あなた、こんな良い部屋よく取れたわね?」
母の疑問は最もだろう。子供心ながら、平民である自分たちが滅多に泊まれるものじゃないことくらいはライムにだって分かる。
「ここのホテル、うちのお得意様なんだよ」
と父はにやりと笑いながら言った。
「父さんってすごいんだな!」
とデルクが感動したように言う。
「そうだろ、そうだろ?もっと褒めてくれても良いんだぜ」
と父は得意気だ。
「はいはい、そんなことより、もうこんな時間よ?ディナーは良いの?」
と母が言った。
「そうだな。じゃあお腹空いた人―?」
と父はいうと、デルクとライムは揃ってはーい、と手を挙げた。
「それじゃ、食堂行くか」と言った。
「うめぇ…、こんなうまいの、王都でも食べれないよ!」
とライムは興奮していた。その日のディナーは取れたての食材を使った海鮮丼だった。
「はっはっは、お前はよく食うなぁ。これからの成長が楽しみだぜぇ」
と父はいい、ライムの頭を撫でた。
母もデルクも、もちろん父もライムもご機嫌だった。それも当然、こんな新鮮な魚料理は王都だと中々庶民には手に入らないシロモノだからだ。いくら氷魔法で保存すればいいとはいえ、それを維持したまま王都に運ぶには相当な魔力が必要な上、何よりそれだけでは人口の多い王都の需要を支えきれないのだ。
家族みんな満足したところで、自室に戻り、ベットへと就いた。
明日はいよいよ海で泳ぐのだ。心地よい波の音がゆっくりと遠ざかり、ライムは眠りの世界へ誘われた。
翌朝、目が覚めると、見事な快晴だった。
相変わらず豪勢な、期待を裏切らないホテルの朝食を終えたところで、ライム一行はお待ちかねの海に泳ぎに向かった。
「おい、二人とも、遠くには行くなよ。パパ、飲み物でも買ってくるからよ」と言ってどこかに行ってしまった。
「ねぇ、ママは泳がないの?」
とライムは尋ねた。
「んー、濡れたくないし、日に焼けちゃうから、日陰にいるわ」
と言うのが母の返答だった。
「じゃ、ライム、行こうか」とデルクは手を引いた。
「絶対、遠くには行かないでよ?」
と母は強く念を押す。
「はーい」と二人は揃って返事をした。ほんと、心配性なんだから、と二人は笑いながら海へ向かった。
ライムは波を足元にしていた。ふうっと一息つくと、そっと右足をつからせてみた。思ったよりひんやりしている。もう一歩踏み入れる。デルクを見ると、もう腰の高さまでつかっている。
「ほら、こっちまで来なよー」とこちらに向かって手を振っている。
外から見ると、海は何か大きな生き物のように思えたが、中に入ってみると実際にはそうでもないということがわかり、そのまま強い足取りで兄のもとまで歩いて行った。
デルクは、弟が臆せず歩いて来るのを見て、
「んじゃ、泳ぐか」と言い、泳ぎ始めた。
ライムもそれも見て、兄に付随するように泳いだ。しかし、なんせ人が多い。それもそのはず、ラルトシティはポラリス王国の中でも有数の海辺街なのだ。少し泳ぐ度に人にぶつかってしまう。デルクは不満を感じていた。
「人多すぎだよなぁ…。もっとのびのびよと泳ぎたいのに」
「ねぇ、お兄ちゃん、あそこ、人少ないよ」
とライムは言った。ライムが指を指した場所は岩場の近くで、確かに、二組ほどしか泳いでいない。でも、何故そんなに人が少ないんだ…?とデルクが考えてるうちに、ライムは既に向かい始めてしまった。
「待ってよ!」とデルクもその後を追いかけた。
「泳ぎやすーい!」とライムははしゃいでいる。確かに、人が少ないので危ないスポットかと思ったが、それもどうやら杞憂のようだ。そんなに沖でもなく、決して潮の流れも早くない。子供でも十分泳げるレベルだ。
我ながら良い場所を見つけた、とライムは内心得意になっていた。
王都での生活も決して悪くはないが、こうして体をのびのび動かして泳げる、ラルトシティに住みたいなぁ、と思った。
ライムがクロールをしていると、ふと、右足が攣った。いたっ、と小さく声をあげ、足を着こうと思ったが、つけない。底が深すぎたのだった。その時、鼻に水が入ってしまった。体勢を整えたいが、できない。もがいているうちに、左足も攣ってしまった。
「に、にいちゃ…がっ」
声をあげようと思っても、うまく声が出せない。
「ライム!」
デルクが異変に気付き、弟のところへ向かった。しかし、デルクの身長でも底に足をつけられない。
「くそっ…、風圧!」
風魔法を使い、水をはけさせようと思ったが、海はそれほど甘くない。
「ライム、ライム…!」
誰かがそう呼んでいる気がしたが、次第にその声は遠ざかって行った。