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聖痕のワルツ  作者: 兎月
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第二話 黒い太陽

まことに長い間投稿せずに申しわけございません。

桜真が呆けていたのはほんの30秒ほどだった。

現実に脳がついていけていない。

というかこんな状況に追い込まれていきなり対応できるやつなんかいるわけがないと思う。

いたら是非秘訣を教えてくれ、と桜真は叫びたくなった。

本当に叫んだりはしないが。

ここがどんな世界か知らないが、少なくとも夜の森で叫ぶのは誉められない行為なことはわかる。

熊だとか、もしかしたら得体の知れない動物がいるのかもしれないのだ。

うかつに大きな声をあげるなんて危険である。

よくこんな小説だとか、マンガだと主人公は謎の武術の使い手だったり正当後継者だったりするが現実にそんな設定を持っている高校生なんて世界中に何人かいるかいないかだろう。

まあ何人いようといまいと、自分にはないのだからしょうがない。

ないものねだりしている暇があるなら、これからどうなるか考える時間に使うべきだ。

「さて……」

そう呟いて、桜真は思考を切り替える。

冷静でいるように努めていないと状況に流される。

これからどうすべきか。遭難したらその場を動くな。

これは鉄則だが、あくまで自分以外に山に行った人間がいないと成立しない鉄則だ。

幸いにも気温は少し暑いくらいだ。凍死の心配はない。

月の位置からして夜が明けるにはまだかなりかかる。

夜は、獣の時間だ。

しかし、ここにいても助けは来ない。それにここに留まるのは、気が狂いそうになる。

なら動くしかない。危険でも、狂うよりはましなのだから。

足は動く。

思考の時間はおしまいだ。


歩き始めて、五分ほどたった。

景色は変わらず、森、森、森。薄暗い森の中を歩くのは、はっきり言って怖い。月が二つあるおかげで、相応に足元が明るいのが救いといえば救いだ。ともかく、このままだと夜が明けるまで遭難状態だ。なにか、人里を示す看板でもないか、と月明かりを頼りに地面を見回して、そして。


感じた。


否、感じるなんて能動的なものではない。桜真は、それ(・・)を叩きつけられた。

不快な感覚。刺さるように刺々しい気配。隠れる必要もないとばかりに、そこら中から感じる殺気。隠れるのを止めた、それらの主たち。

のそり、とゆっくりとした動作で木々の間の暗がりから現れ、桜真に近付いてきた。

犬歯を剥き出しにしながら、唸り声をあげ桜真を威嚇するのは、狼のような獣たち。

見たこともないような大きな狼が、五匹。

それぞれが、子牛ほどの大きさで、人の頭くらい噛み砕けそうな口を持ち、人差し指くらいの犬歯を持っている。

そして、いつの間にか、桜真は囲まれていた。

「ガァ!」

嘆く暇も悲鳴を上げる暇もなく、飛びかかってきた一匹を右腕で殴り飛ばす。狼は左に飛ぶが、しかし空中で殴った程度ではダメージなど与えられない。それどころか、殴った桜真の手のほうが、ダメージは大きい。

そして一匹を殴った隙に、もう一匹が桜真の左腕に噛みつく。

「ぐぅっ!」

とっさに噛みついてきた狼の眼を指で突く。ズブリ、と嫌な感触が桜真の指に残った。

「キャンッ!」

たまらず狼は桜真の腕から離れる。しかし、左腕の感覚がない。見ればきっと血で真っ赤に染まっているだろう。左腕が叫ぶように痛む。

激痛と混乱で、視界はまともに機能しない。朦朧とした視界。歪む景色。

そして、また別の狼が桜真に飛びかかる。

今度は足。狼の牙が桜真の右足に食い込む。

声も出せないほどの激痛が走る。立っていられなくなる。


絶対絶命だ。オレでは、この狼たちの包囲を抜けられない。

ジリジリと近寄ってくる。

衝撃。

一瞬の暗転。気が付けば地面に打ち付けられていた。

背中が痛い。だが今は、気にしてはいられない。なんとか立ちあがろうとして、しかし。

狼の爪が肩に刺さる。狼の牙がオレに迫る。

赤い口腔が視界を埋める。痛みが意識を占める。

腕が痛い。足が痛い。肩が痛い。背中が痛い。焼けるように痛い。凍るように痛い。

まるでオレの全てが、痛覚になったかのような。

これが、死か。

こんなものでオレは終わるのか。

どこかも知らない場所で。

唐突な、理不尽な、こんなもので。

迫ってくる死から逃れようとして、それができないと悟ったとき。

それでも、腕を動かそうとしたそのとき。

世界の全てが、止まって、反転した。


『生きたいか?』


何も動かない、灰色の世界。狼も自分も動かない世界の中で。

意識だけは鮮明に声を、聞いた。

朦朧とした意識でも、わかる。

この声は。オレを、ここに呼んだあの声だ。


『聞いているんだ。生きたいか、と』


「生きたい」


何故またお前が、とか。何で世界が止まってるんだ、とか。そもそもなんでこんなことになっているんだ、とか。

今、そんな疑問の答えはわからない。

ただわかるのは、オレは生きたいと、そう思っていることだけだ。

こんな風に死ぬことを、許容できるわけがない。

『生きる理由もないくせに?』

ああ、確かに生きる理由はない。

願望はなく、決意はなく、矜持はなく、おそらくオレには何もない。

だけど、それがなんだっていうんだ。

「生きるのに、理由がいるのかよ」

『ああ。必要だ。たとえそれが仮初でも。人には理由が必要なのだ。絶望せずにいるのならば。この状況で微塵もあきらめていないのなら。

死にたくないと願うのならば、逃げ出したいというのなら確かに理由は必要ない。

だが生きていたいと願うのならば、立ち向かうというのならそれ相応のナニカが必要だ』

「知るかよ。そんなこと。オレは生きていたいだけだ。大層な理由なんざ、ない」

『たとえ、他の命を奪おうともか?』

「……たとえ、他の命を奪っても。オレは、生きていたい」


そう、薙空桜真は己のために、他の何かを殺すことができる。

それが、薙空桜真だ。


『それで、いい。聖者などつまらん。善も悪も飲み干して、業と性に塗れてなお、生きようとするお前こそ、我が敵に相応しい!』

声が、吠える。

嬉しそうに、楽しそうに、可笑しそうに、犯しそうに。

『なればこそ、お前には生きていてもらわなくてはならん。ゆえに、お前に力をくれてやる。なに、返せなどとは言わんさ。だが使いこなせ。そして我の前に立ちはだかれ。それを以て、対価としよう』

「何を、言っている…?」

『歓迎の言葉だよ。薙空桜真』


ドクン……!


「ぐっ!」

心臓が、跳ねる。

血液が、逆流する。

骨が、軋む。

筋肉が、断裂する。

喉が、裂ける。

心が、壊れる。

魂が、砕ける――!


停止する世界で、感じなかった痛みが帰ってくる。

言葉が、出ない。

いっそ死にたくなるほどの痛み。狼による傷なんて、これに比べたらないも同然だ。

地獄ですら、生温い。魂と肉体が、薙空桜真から剥離する。


砕かれる。壊される。潰される。

そして、造り変えられる。

蘇生の痛みは、形容できない。

限度を超えた痛みで殺されて、限度を超えた痛みで蘇生される。

もちろん、比喩だ。人は生き返らない。

ただ、蘇生にも似た感覚(いたみ)が、桜真を支配する。

自分が自分でなくなる痛みは、人の自我を崩壊させるには十分だ。


だから、歯を食いしばる。


間断なく迫る痛みに耐える。自分という存在にしがみつく。

オレは、この程度では変わらない。俺の精神(エゴ)はその程度では揺らがない。


「オオオオオオオオオオオオォォォォォ!」


雄叫びをあげて、己を認識する。

体は、動かない。脳は、回転(まわら)ない。

それでも、あきらめるつもりはない。


そして桜真は、激痛の最中に闇に染まった太陽を幻視した。

おぞましく、おそろしく、禍々しく。それなのにどこか安らぐその太陽が俺を飲み込んで。

俺は、確かに生まれ変わり、それでも何も変わらなかった。

言うなれば、オレの魂に何かが混じったような。

その何かが、あの黒い太陽だと根拠もなく確信する。




『気分はどうだ?生まれ変わった気分は?』

「最っ悪、だ」

『フハハハ。魂と体を再構成してその程度か。素質が無ければ、精神(こころ)が再構成された魂と体に引きずられて発狂するのだが』

「ふざけてやがる」

事も無げに言う声に、一言悪態を吐いて、桜真は自分の状況が変わっていることに気づいた。

いつの間にか自分は立っている。そして狼たちは、桜真を睨みつけ唸り声を上げている。

ただ、それは怯えているようにも見えた。


『さて。実践だ。実戦だ。実験だ』

この声の主に対する怒りはある。しかし、そうも言ってはいられない。状況は改善されはしているが、いまだ桜真は危険の中にいる。

しかし、何を実践するのか、実戦するのか、実験するのか。

せめてと、拳を握り構えた時。

何かが、自分の中で脈動するのを桜真は感じた。それは、さっき感じた感覚だ。

あの、黒い太陽を見た時と。

熱く、甘く、苦く、重く。体を駆け巡るその感覚は、まるでマグマのような灼熱で――!


そして桜真は、あの太陽をもう一度幻視した。


「ぐうぅぅ…」

熱い。

その熱は、桜真の体を内側から灼き尽くす。 


「オオオオオオオオオ!」

咆哮と同時、桜真の体から“闇”が溢れ出した。

艶やかなその漆黒は、桜真の体を覆った。そして、桜真の腕に収束される。

肘から先が“闇”に覆われる。いつの間にか開かれた掌を“闇”は、まるで獣の爪のように覆っている。

あるいは、獣そのものというべきか。

息は荒く、姿勢は低く、眼は淡く輝いている。

その姿はまるで今にも狼たちを食い尽くそうとする、獣のように見えた。





狼たちは戸惑っていた。

最初は、弱い獲物のはずだった。夜の森を不用意に歩くその哀れな獲物は、脆弱でしかなかった。

たったの数回噛みついただけで、すぐに死にかけになった。

事実、最後のひと噛みであの獲物は殺せるはずだった。

なのに、今はどうだ。

気が付けば、あの獲物は立っていて。

気が付けば、あの獲物は得体の知れないものに変貌していた。

両腕に黒いナニカを纏い、こちらを睨みつけるあの姿は。夜の闇の中で、淡くしかし確かに輝くあの眼は。

まるで(われら)のようではないか。

しかし、レベルが違う。獣としてのレベルが違いすぎる。

あの生物に逆らうな、と本能が絶叫する。いや、そもそもあれは生物か?

この世の埒外の何か。そうとしか思えない。

恐怖に硬直した、その時。

「ガアアア!」

一匹がアレに飛びかかった。

恐怖に耐えきれなかったのだろう。その一匹に続いて残りの狼が飛びかかる。

そして、刹那のあと、狼たちはこの世界から消滅した。


飛びかかってくる狼たち。それを見た瞬間、桜真は考えるよりも速く準備を完了する。

迎撃ではない。

攻撃(・・)である。

相手の攻撃がこちらに届くよりも速く。

古くから言われる戦法だ。『先手必勝』。それを、この状況下で実行する。

牙より速く、爪より速く。狼たちに、両腕の、闇で造られた爪を叩きこむ。

そして、狼たちは引き裂かれた。

桜真の“闇”は、その軌道上にあるものをまるでバターか豆腐のように切り裂いた。

もとからそうであったかのように、“闇”は何の抵抗も感じさせず肉を切り、骨を断つ。

桜真の“闇”は、瞬く間に狼たちを絶命させた。

周りに散らばる狼の死体。どれも頭や心臓の部分が断ち切られている。

致命傷。反撃も許さず、薙空桜真は狼たちを殲滅した。

「は?」

理解できない。何だこれは。なぜ自分がこんなことができる。体に染みついた動きのように、一瞬のうちに命を奪うなんて、できるはずがない。

それなのに、自分がやったと確信できるのは、なぜだ。

それなのに、肉を斬る感触が、生々しく手に残っているのはなぜだ。



『ハハ、上出来だ“闇の御子”』

また声が聞こえてきた。

この男なら、全てを知っているはずだ。それを問いただそうとしたとき。

『では、今日はこの程度にしておこう』

まるで明日も会う友達のように気軽に男は別れを口にした。

「なっ!待て!全部説明しやがれ!」

『全部、とは?』

面白そうに、男は聞き返す。絶対に、この男はわかってやっている。

その反応にいらつきながら、声を荒げる。

「決まってんだろう!この力のことも、この場所のことも!全部だ!」

『それはできんな。知りたいのなら、実戦しろ。戻りたいのなら、強くなれ。その後に、我を探せれば、我に勝てたら、元の世界に返してやろう。おまえのやるべきことは、自己の研鑽と知れ』

「っ!どういうことだ!」

『ああ、最後に一つ。』

桜真の叫びを無視して、男は話し続ける。

『炎と、出会え』

神の啓示のように厳かに、男は告げた。

『ではな』

気軽に、声は去って行った。根拠はないが、おそらく、もう繋がりが断たれてしまった。

残されたのは、桜真と狼の死体だけ。


「ふう…」

とりあえず、息を吐く。何もわからないが、ともかく危機といえるものは去った。

どこかに座ろうとあたりを見回して、そして。


桜真は見た。

こちらに歩いてくる少女を。

宙に浮かぶ月のような白銀の髪と、血のように紅い双眸。女神か、あるいは悪魔のような美貌。

体を銀色の軽鎧で包み、左腰にはひと振りの剣。

美しいその容貌とは裏腹に、華奢な感じは受けない。花のようでありながら、まるで剣のようでもある。

警戒心を剥き出しに桜真を見る。

「お前は、何者だ」

声が森に響く。

それが、邂逅だった。

この日を革切りに、鎖のように堅固で、毒のように悪辣な運命が動き出す。


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