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越後蹂躙

さて、中国の戦いが終わり、秀吉軍と新しく臣従することになった毛利家の連合軍が信長の三男織田信孝率いる四国遠征軍に加わり、四国の戦いがここから新たな局面に入るわけなのだが、その前に語らなければならないものがある。


北陸である。


六月二日の時点で、越中の魚津城は落城寸前、同じ頃、信濃から森長可が上杉景勝の本拠地春日山城に迫っていたのだ。

六月下旬まで時間が進めば当然進展はある。

それを語っておこう。


六月三日。

魚津城落城。

六月七日。

柴田勝家は松倉城に続き天神山城も落とし、事実上越中の平定を完了させ、いよいよ越後攻めにかかる。


目指すは上杉の本拠地春日山城。


魚津城から春日山城までは百キロ弱。

行軍での平均的な移動距離一日あたり十キロとしても十日もあれば到着できる計算になる。

途中、織田軍が越中から侵攻することに対して景勝が整備した勝山城などいくつかの城を落とし、春日山城近くに柴田軍が姿を現したのは、毛利が織田に下りた翌日の六月二十八日。


むろん現在の上杉軍がすべての点において先代のときの無敵ぶりに遠く及ばない。

それを承知している景勝はすでに野戦で迎撃を諦め、織田軍との戦いは春日山城での籠城戦と決め準備を進めていた。


魚津城が三か月持ち堪えたのだ。

難攻不落の春日山城ならそれ以上。

冬になれば織田軍は撤退するしかない。


それが上杉方の目論見となる。

だが、上杉を取り巻く状況は厳しいものだった。


六月上旬には春日山近郊までやってきていた森長可は自身の五千の軍に木曽義昌など北信濃の諸将が合流しその数が八千で周辺の城を落として間回り「鬼武蔵」の名にふさわしい活躍をして気勢を上げていた。

いうまでもなく長可が暴れまわっていたのは春日山城の目と鼻の先。

だが、来るべき柴田勝家との戦いのために兵力を温存しなければならない景勝は動かず、いや、動けず、目の前で城が落とされるのも空しく眺めるしかなかった。


さらに、上野からも滝川一益も旗下の全軍で本格的に越後侵攻を始め、一度は滝川の侵攻を国境付近の戦いで防いだ長尾伊賀守と栗林政頼も織田に下り、上野との国境の要衝である清水城、樺沢城を失う。


一方、北越後で信長側に与し景勝に反旗を翻した新発田重家と五十公野信宗に対し、景勝の命を受けた本庄繁長、色部長真らが鎮圧に動くものの、同じく織田と結び、重家を後援していた蘆名盛隆の本格的な支援が始まると、流れは完全に重家らのものとなる。

そして、滝川軍が上野から越後中部まで進出してくると、越後の土豪たちは次々と信長への恭順の意を示すと挟撃される形となる繁長と長真も重家と和睦し信長に臣従すること表明する。


そう。

柴田軍が春日山城にやってきたころには、越後はほぼ織田の手に落ち、上杉に残っていたのは春日山城とその北側の一部だけになっていたのである。

そして、大軍で春日山城を包囲することに成功した勝家は、安土へ使者を出す。


上杉景勝を包囲したと。


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