中国仕置き
和睦成立。
信長、信忠親子が多数の兵とともにやってきているのだ。
当然毛利も数か月前の武田の運命と同様なものとなるべき。
そう考えたくなる。
だが、毛利と武田とは決定的な違いがある。
前述したように織田と毛利は領土割譲による和議がほぼ成立しかかっている。
それに比べて、武田勝頼は人質同然であった信長の五男信房を返すなどなんとか和睦への努力をしていたものの、信長はすべて拒絶し、朝廷から武田討伐の勅命まで手に入れている。
滅ぼすつもりで。
織田と毛利の全面対が起きなかったのは一見するとありえないように思えるが、実は理に適っていたといえる。
そして、織田と毛利の和睦に比べれば小さなことになるのだが、語っておくべきことがひとつある。
織田軍に包囲されていた高松城の清水宗治であるが、織田と毛利との和議が成立したこともあり、信長の直々の命により許され、部下たちとともに小早川隆景のもとに向かう。
そして、彼もまたここから史実とは違う時間を過ごすことになる。
では、中国平定編の締めとして主な仕置きをしておこう。
毛利輝元。
安芸、長門、周防の三か国四十九万三千石、例の軍役表を使用すれば、一万二千三百人あまりを抱える小さいとはいえないが、普通の大名に成り下がる。
羽柴秀吉。
長浜城を中心とした近江の領地は十二万石。
それに加えて、但馬十一万四千石、播磨三十五万九千石、備前二十二万四千石、備中十七万七千石、備後十八万六千石、美作十八万六千石、因幡八万九千石、伯耆十万一千石、出雲十八万七千石、石見十一万二千石、あわせて百八十五万五千石を支配することになる。
ただし、このうち備前と美作の二か国は宇喜多秀家に、播磨半国を黒田孝高に、対毛利戦の功として与えられ、南条元続にも伯耆半国を領することも認めており、出雲と石見は預けということで秀吉の領地というわけではないのだが、それを除いても百万石は軽く超える。
ひとりの家臣にここまでの力を与えてもいいのかという疑いを持つのは当然であるのだが、実は信長なりの計算がそこにあった。
この時点での羽柴家の世継ぎは羽柴秀勝。
すなわち、信長の四男である。
秀吉に与えた領地は最終的に織田家のものになるのだ。
ちなみに織田家が繁栄を続けるかぎり、秀頼は絶対に誕生しない。
そして、当然ではあるが、これだけ与えたのだからそれ相応の働きを要求する。
最終的には九州攻めとなるわけなのだが、まずは四国への後詰め。
そして、信長があれだけ有利な状況にもかかわらず、滅ぼせるはずの毛利と和議を結んだのは、秀吉の四国遠征軍に加わることがすでに信長のスケジュール帳に記されていたから。
それは信孝軍が二万人弱という敵方である長曾我部氏を討つにはあまりにも少数であるにもかかわらず四国遠征を始めたことからもあきらかである。