和議成立
備中国猿掛城。
史実では取り立てて重要な役割を果たすことがなかったこの山城を境にして織田と毛利が睨み合いを続ける。
安国寺恵瓊が毛利、織田の間を行きかい、交渉が再開される。
敵対する者は絶対に許さず、すべて皆殺しにするというイメージがある信長であるが、そうでない場合も意外に多い。
だが、力を温存させたまま毛利と和議を結ぶほど信長は甘くはない。
毛利と和議を結ぶと大前提でここにやってきている信長であったが、信長が恵瓊にあらためて提示した和議の条件がこうなる。
五か国に加え、石見銀山を含む石見の割譲。
然るべき者を人質として差し出し信長に臣従すること。
石見銀山を手に入れることによって自己の力が増大するとともに、毛利の弱体化が確実に進む。
これであれば講和しても後々の憂いはない。
逆に毛利としては六か国を失ったうえに石見銀山を手放すことは本物の滅びに繋がる由々しき事態。
簡単には承知できない。
ただし、この条件を毛利が飲まなければ羽柴、明智連合軍が攻撃を再開することになり、どのような事態になろうが降伏は許されず滅ぶしかない。
織田五万対毛利二万。
もちろん、最終的には毛利は歴史から消えることになるが、多数の裏切り者や兵の逃亡が起き、最終的に攻め手の十分の一程の兵になった武田と違い、内部崩壊させる調略がそれほど進んでいなかったためこれまでと同様ひとつ城を落として進んでいくしかなく、名将の吉川元春と小早川隆景がいる毛利はとの戦いの終結はさらに数年かかることになる。
早期に集結させるには、山陰からの進軍を必要となり当然増援が必要となるわけで、当然今回の信長の出陣では決着できないということになる。
その間に何か事件が起こり、この危機から脱出できるかもしれないが、毛利側としては、あるかどうかもわからぬものをアテにして戦うなど愚の骨頂。
いわゆる「滅びの美学」や「武士の潔さ」を愛する者にとってここは毛利側に徹底抗戦をしてもらいたいところだが、それは浪漫主義者の妄想でしかなく、この時代には不倶戴天の敵であっても、「昨日の敵は今日の友」の言葉を実践するかのように和議を結ばれ、臣従することなど珍しくない。
そして、ここでも……
安芸、周防、長門の三か国の領有を保証されることを条件に割譲地に石見も加える。
毛利家当主毛利輝元に子がいないため、小早川隆景の養子で史実ではのちに秀包となる小早川元総と吉川元春の長子元長が人質として差し出されることが決定される。
六月二十七日。
毛利は屈辱的な条件を受け入れてでも、生き残ることを選択する。
だが、それでは非常に都合の悪い男がいた。
足利義昭である。
もちろん信長は義昭の命を奪う気はないが、本人はそうは思わない。
それどこか毛利の交渉の材料にされかねないとして脱出する。
同じく信長とは顔を合わせるわけにはいかない荒木村重とともに西へ向かう。
だが、毛利側としては、これこそ、これはこれ幸い。
実をいえば、信長との和議の障害だった義昭の存在は百害あって一利なしだったのである。