備中高松城 そして、さらに西へ
織田対毛利。
その最前線である備中高松城の状況はこうである。
高松城を包囲し、さらに水攻めにした羽柴秀吉。
それに対し、毛利軍は南側に陣を敷く。
もう少し正しくいえば、北西から南東へ陣を敷く。
毛利側の左翼は吉川広家、右翼は小早川隆景で、備中に所領を持つ諸将が周辺の要所を受け持つ形となる。
ちなみに毛利側の総大将輝元は高松城から二十キロほど西方の猿掛城に滞在していた。
つまり、毛利方は援軍をすべて運用できる状態ではなかったということである。
そうなれば、毛利方が多くの資料で登場する五万の兵で増援に来ていた場合でも前線で指揮する両川の手元には三万程度の兵しかいなかったと思われ、実像も近いといわれる全体で数万となれば、前線には二万もいなかった可能性だってある。
そして、実は後者の数字が正しかったのは、毛利軍は高松城の救援にやってきたのであり、さらに前線にいくさ上手と言われる吉川広家と小早川隆景のいわゆる両川を配置が完了しながら、織田の包囲軍を蹴散らして城兵を救い出すことなく睨み合いに終始していたことからもあきらかであろう。
六月四日。
光秀明石に到着。
六月五日。
信長、信忠さらに五男で勝長とも呼ばれる信房も合わせた親子三人が側近とともに明石に到着し、光秀軍と合流。
また、安土から蒲生氏郷や団忠正ら織田本隊も到着する。
むろん、この時点で光秀の与力である中川清秀、高山右近、細川藤孝と忠興父子、さらに別働隊として池田恒興も三千を率いて集結している。
六月六日。
信孝軍、四国上陸。
六月七日。
姫路を立った織田の大軍は六月九日に高松城の後方に位置する沼城に到着する。
史実では中国大返しで東に進んでいた秀吉軍が姫路に到着したこの日に信長、光秀が揃って戦場に姿を現したことになる。
そして、六月十一日。
明智光秀軍本隊一万三千。
細川氏ら与力衆八千。
池田恒興の別動隊三千。
合計二万四千の援軍が吉川元春軍と対峙するように高松城の北西に陣を敷き、その南側に秀吉軍がもうひとりの両川である小早川隆景の軍を臨むように二万を並べる。
信長と信忠は秀勝らとともにその後方に陣取る。
明智光秀率いる二万一千対吉川元春の一万。
光秀軍には、明智秀満、斎藤利三など史実では山崎の戦いで光秀とともに消えることになる直臣のほか、与力として細川藤孝・忠興親子のほか、池田恒興、高山右近、中川清秀が名を連ねる。
一方、吉川元春はいくさ上手として有名であり、七十六回戦い、無敗だったとされる。
羽柴秀吉率いる二万対小早川隆景を中心とした一万。
羽柴軍は羽柴秀長、黒田孝高、蜂須賀正勝、加藤清正、山内一豊、堀尾吉晴、宇喜多秀家の叔父忠家など史実でいえば光秀軍以上にそうそうたる名前が並ぶ。
それに対する小早川隆景は派手さこそないものの、調略によって羽柴軍に奪われた日幡城を奪還しているなど元春と同等の力を持つ。
数の上で上回る明智、羽柴軍と、両川との戦い。
誰もがその攻防を期待するところであるのだが、援軍に光秀だけではなく信長率いる織田本隊まで現れたことで毛利側が恐慌状態に陥る。
もちろん信長を討ち状況を一転させる好機と主張する吉川元春のような者もいたのだが多くは退却を主張。
方針が固まらぬまま夜となる。
六月十二日。
池田恒興と中川清秀から始まった光秀軍、それに続き秀吉軍も攻撃を開始。
数の差はいかんともしがたく毛利軍は持ちこたえられず、周辺の諸将の退却に巻き込まれた小早川隆景軍が退却を開始、光秀軍と五分の戦いをおこなっていた吉川元春も敵中に孤立する恐れが出てきたことから陣を引き始める。
むろん追撃戦に入る織田軍であるが、ここで殿を務める吉川元春が小早川隆景とともに立ちはだかる。
勝利は確定している以上、無用な損害を避けるため織田軍は追撃を一時停止したこともあり、結局毛利方は損害を受けながらも、猿掛城までの撤収に成功する。
織田軍は高松城を包囲したまま、猿掛城の東側に陣を敷き直し、そこから織田対毛利の戦いは新しいフェイズに入るわけなのだが、ここである疑問を提示したい。
毛利方から出されていた、五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲しての和議、つまり停戦という話である。
この案はその代わりに高松城の城兵の開放という条件がつく。
それに対し、秀吉は和議に応じるには城主清水宗治の切腹ならば和議に応じると返答している。
これは非常におかしい。
おかしいというより、あり得ないと言ったほうがただしいだろう。
秀吉は北国での戦いの際に無断で戦線離脱して信長に叱責されている。
この毛利との和議は戦線離脱などとは比べようがないくらいの大きな出来事である。
秀吉がこれを信長に伺いを立てずにおこなったとは思えない。
そうなれば、秀吉が要求した条件は信長の意向ということは十分にありえるし、信長も割譲地域については満足していたということになる。
そして、それは信長の中では毛利は滅ぼす予定はなかったことを示している。