動き出すやってこなかった未来
天正十年六月二日。
信長、信忠父子は京都所司代村井貞勝の見送りを受けて京都を立つ。
目指すは大阪。
同じ日、その大阪から信長の三男信孝を総大将とする一万数千が淡路に渡る。
六月四日、九鬼嘉隆が直々に護衛する船団で信長は淡路に渡る。
そこで待っていた信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆、津田信澄らの歓待を受け、続いて伊予、土佐の知行割をおこなう。
伊予のうち同盟関係のある西園寺氏と得居通幸は領国安堵。
その他は没収。
土佐については長曾我部氏が臣従するのなら認めるというものだった。
織田信長は、多くの者を自身より下に見ているが、その中でも対等と思えそうな者は潰し、そうでない者については意外なほど甘く、身内となるとさらにその度合いが強くなるという一面がある。
そして、同等と認めた数少ない前者が朝倉、武田、上杉といういわゆる名門と言われるものたちで、最終的には滅ぼしたもののあれだけ抵抗した浅井長政に関しては最後まで取り潰しを避ける動きをしているのは長政の妻が自らの妹であり、いわば身内であったからである。
信長にとって長曾我部はむろん後者。
さらに土佐を直接支配する困難さはすでに理解しているうえ光秀配下の斎藤利三が長曾我部と繋がりがあることも知っている。
これは様々な事情が複雑に絡まった結果といえるだろう。
信長はここから光秀が待つ播磨へ向かう。
むろん毛利討伐のため。
それと同時に羽柴秀吉の養子となっている四男秀勝の雄姿を見るためでもある。
一方、信孝率いる四国遠征部隊は信長を送り届けた九鬼嘉隆率いる九鬼水軍を中核とする大船団で四国上陸を敢行することになる。
そして、この時機、一番ホットスポットである対上杉戦であるが、六月三日、三か月の戦いの末、柴田勝家が魚津城を落とすことに成功する。
これにより事実上、越中全体が信長の支配化に入り、そのまま四万の兵で越後へ進軍していく。
それより早く越後に侵攻したのが甲州攻めの功により北信濃を領した森長可で僅か五千の兵で数度の戦いで上杉軍を蹴散らし、六月二日の時点で上杉景勝の居城春日山城から二十キロの地点まで進軍している。
この間約十日余り。
なお、景勝は八千の兵を率いて越中魚津城の救援に向かったものの、五月二十七日には春日山城に帰還するため越中を発しているのでこの時点では春日山城へ戻っていた。
四千弱の兵で守る兵を四万で攻め立てる織田軍を破るための当主自ら向かったにしては八千という数はあまりにも少ない。
さらに、僅か五千の兵で攻めてきた森長可に国境を抜かれ、さらに田切城を落とされ、本拠地に肉薄されるという醜態。
このことから、この頃の上杉氏の武力は質量ともに先代謙信の頃とは運泥の差であったと考えられる。