春日山城攻防戦 序章
信長が安土を出立したのは八月二十日。
実をいえば、この翌々日には春日山城は落城し越後の名門上杉家はこの世から消えていた。
つまり、同じ年に武田、上杉という戦国時代を代表する名家が消えたということになる。
むろん史実では上杉家はこの後、越後から出羽まで勢力を伸ばし、移封により会津百二十万石の大大名となる。
関ヶ原の戦いでの西軍敗北により三十万石に減封されるものの、家そのものは存続する。
だが、それは本能寺の変によって織田方の圧力がなくなったからであり、その本能寺の変が起きないこの世界では当然の結果といえるだろう。
そして、その上杉家の消滅であるが、信長はもちろん確信していたわけなのだが、上杉家当主上杉景勝もまもなく消えることを覚悟していたことは残された言葉によって読み取れる。
そう。
実は、講和の条件が出ていた毛利や長曾我部よりも滅亡の危機にあったのは上杉であり、本能寺の変によって命拾いしたのは二家ではなく上杉家と言っても過言ではない。
それくらい上杉を巡る状況は切迫していた。
ついでに言ってしまえば、本能寺の変に関わる仮想戦記、その大部分は本能寺の変の際信長が生き残ったらという筋書きで、本能寺の変が起きなかったらというテーマで書かれているのは読んだことがない。
当然、勝家軍による越後侵攻やそれに続く春日山城攻防戦というものもない。
そうなると、参考にするものもなく、特に春日山城を攻め落とす方法はどれだけ探しても見つからず、ほぼオリジナルになってしまうので内容は非常に微妙になってしまうのだが、その辺はご容赦を。
もうひとつ。
春日山城攻防戦において城に籠るのは景勝の直属部隊を除けば、有名どころとなれば直江兼続と斎藤朝信くらいとなる。
そして、兼続については大河ドラマの影響で文武両道というイメージが強いが、武、とくに戦闘指揮についていえば、圧倒的数を率いた最上氏との戦いでの醜態(長谷堂城の戦い)からそれほどではなかったという印象を持たざるを得ない。
そして、上杉軍の本当の主力となる本庄繁長や甘粕景持は史実でも新発田重家の反乱への備えをおこなっているため動けず、織田軍が本格的な侵攻が始まれば、越後の中央から東側の国衆の多くはこの物語と同じように織田方に寝返ったものと思われる。
つまり、謙信以来の家臣たちが春日山城に籠り、織田軍と対峙するという話こそ空想の世界といえるだろう。
春日山城についてもひとこと。
難攻不落の代表とされているものの、史実で敵の大軍に攻められたものの守り切った小田原城のような戦歴は春日山城には存在しない。
つまり、落ちなかったのは事実だが、そもそも攻められていないのだから、不落であっても他の城より難攻かは微妙なところであり、大軍を動かす能力があり、かつどれだけ損害が出ても落とす必要性があれば、城は落ちる。
そういう目でこの城を見ると、守備兵が一万というその広さに比して少ないことに加え、城自体も有名な山城ほど防御施設は整っていないから、不落はあり得ない。




