天正十年六月二日
史実ではこの日の明け方にその出来事が起こるわけなのだが、ここでは何も起きない。
もちろん信長は健在であり、光秀は老いの坂から西に向かうのだが、ここで興味深い話が紹介しよう。
四国のうち讃岐と阿波以外の二か国については信長が淡路に渡ったところで決定することになっていた。
実は四国に出陣する信孝に讃岐を、すでに阿波で長曾我部軍を戦っている三好康長に対しては将来信孝を三好家の跡取りにすることを条件に阿波を与えることを信長は約束していた。
つまり、残る土佐と伊予の分配をどうするかをそこで決めるということである。
信長に帯同していたのは五十人ほどではあるが、信忠の配下を合わせれば千人ほどの規模にはなる。
領内の護衛としてはそれなりの数となるが、渡海となればそうはいかない。
おそらく、相応の護衛を付けると思われる。
信孝ほか織田の諸将は淡路で信長を待つ形になり、また阿波で長曾我部氏と戦っていた三好氏もそれなりの者が淡路にやってくることになるはずである。
さらに徳川家康が堺に滞在していたのも、このことも関係しているとも言える。
淡路に渡る信長の見送りである。
もうひとつ。
信長は安土を立つ前に、直属部隊の出陣を命じている。
彼らも四国へ向かうのか?
むろん今となってはわからない。
だが、ここでは彼らの向かう先は四国ではなく中国とする。
つまり、信長は淡路に渡り、四国の仕置きを決定した後に中国へ向かい、毛利との決着をおこなうつもりだったということにする。
そして、中国に向かった光秀はその信長を出迎え、信長とともに備中へ向かう予定だった。
まさに信長軍の中核である。
そして、目を天正十年六月二日で一番のホットスポットだった越中魚津城を動かしてみよう。
史実では激戦が続いていたこの城を巡る攻防戦は本能寺の変が起こった翌日六月三日落城という形で織田方の勝利となっている。
その後、本能寺の変の知らせで柴田勝家が撤退をしていくわけなのだが、ここでは当然そのまま越後へ侵攻していくことになる。
ここで重要なのが、上杉軍の動きである。
同じ時期に北信濃から森長可が五千程の兵を率いて越後に侵攻していたのだが、長可の六月二日ごろには上杉氏の拠点春日山城の目と鼻の先まで進出していた。
たった五千程の兵。
そして、居城の近く。
巷に溢れる最強軍団上杉氏ならすぐさま迎撃し簡単に撃退しそうなものなのだが、その様子は見られない。
近くまで引き寄せ、包囲殲滅する予定だったのかもしれないのだが、五千ほどの兵でも正面から叩いて粉砕するほどの力はこの当時の上杉氏には残っていなかったのかもしれない。
そして、ここでは春日山城に残っていた上杉氏の兵力はそれほど多くはないもとして話を進める。
魚津城に加勢に出たときの八千。
それに留守と周辺の兵を合わせて一万。
合計二万弱というところであろうか。
では、そろそろ本題となる話を始めよう。