そして、魔王がやってくる
七月二十五日、信長とともに四国の地に踏んだのは、稲葉一鉄こと稲葉良通と息子の貞通が率いる二千。
さらに良通のもうひとりの息子である稲葉重通、溝口秀勝、蒲生氏郷、菅屋長頼、堀秀政、矢部家定、福富秀勝、長谷川秀一、阿閉貞征、さらに若江三人衆と呼ばれる多羅尾綱知、野間康久、池田教正ら。
その合計は九千余り。
そして、信長本隊の上陸によって織田軍の四国遠征軍の総勢は六万を超えるところまで膨れ上がる。
そこに自軍の数の少なさに焦った小早川隆景の督促によりおこなわれた毛利軍の追加派兵、九鬼や村上の水軍や雑賀勢、三好や西園寺などの四国の国衆も合わせれば八万近くまで数は増え、史実にある秀吉の四国平定戦での動員数と遜色のない規模となる。
そう。
これが信長の四国遠征軍の本当の姿。
そして、北陸に向かった信忠軍も予定通り四国遠征に加われば、その完全体となり秀吉の四国平定戦とほぼ同規模になっていたということにもなる。
もちろん、間者の連絡により光秀軍に続き、信長まで四国にやってきたことが数日後には白地城の長曾我部元親にも伝わる。
それと同時に各地で劣勢になっている自軍の状況も届く。
この時点で秀吉、毛利軍に加え河野氏ら国衆にも追われた長曾我部軍は伊予の東端の川之江城まで敗走中。
讃岐も西部の麻城こそまだ持ち堪えているものの、その東はすでに織田軍に占領され、讃岐の国衆も次々に織田方に寝返っている状況。
元親のいる白地城の東にある重清城からは一万を超える織田軍の襲来とともに援軍の要請があるものの、白地城を空にしても五千もおらず、形勢逆転には程遠い。
さらに土佐への増援要請は日和佐城がまもなく陥落し、土佐防衛の要衝牟岐城に三好織田連合軍が大挙してやってくるという報が答えとして返ってくる。
事ここに至っては土佐だけではなく阿波の一部を所領として残したいなどと言ってはいられない。
織田軍が土佐に入り、信長が長曾我部を滅ぼすという決定を出さぬうちに、土佐一国を領することを条件に降伏するしかない。
ありがたいことに阿波から土佐の東に侵攻している三好と織田連合軍には以前からつき合いのある光秀配下の斎藤利三がいる。
利三を介して和議を申し入れるしかない。
もっとも、これは偶然ではなく光秀の配慮。
そして、元親への早期降伏をするようにというサインでもあり、元親もようやくそのサインを利用する気になったのである。
だが、この時代はすべて伝令役の使者が口伝と書で伝えるしかない。
そして、阿波の山奥から土佐の高知、そこから土佐の東端に近い最前線の牟岐城を経由して織田方へ伝えられ、さらにそこから信長のもとに伝えられるまでには五日はかかる。
つまり、往復十日。
だが、元親にはそれを待つ時間がなかった。
そう。
一族の生き残りを賭けて戦っているのは元親だけではなかったのだ。
そして、自身の生き残りのためには長曾我部軍の撃破が絶対に必要だった。
その彼らが白地城を目指してしてきたのである。
その日、白地城の元親の目に入ってきたのは、「左三つ巴」に混ざって「一文字三星」と「折敷に三文字」という三種類の旗。
小早川隆景率いる毛利と河野の連合軍である。
そして、ここには高松城の戦いで奮戦した清水宗治も隆景の配下として加わっていることを特別に明記しておこう。