伊予平定
信長はすでに毛利輝元に四国攻めに参加するように申し渡していた。
むろん、秀吉にも。
だが、輝元も秀吉も領地の授受があり、すぐさま四国攻めに加わることは困難だった。
特に領地が減る輝元は。
最低でも数か月の猶予が欲しいところ。
だが、信長は甘くない。
安土に到着してすぐ秀吉と輝元に使者を出していた。
準備ができ次第、自分は四国に渡る。
それに先立ち光秀が四国に渡るが、光秀に遅れることなく伊予に上陸し敵対する者を駆逐して土佐へ進め。
むろんふたりに届く手紙に書かれているのは右筆が整えた文章なのだが、内容としてそのようなものだった。
それを読んだ秀吉は慌て焦る。
もたもたと準備していては四国攻めの手柄をすべて光秀に持っていかれる。
もちろん中国で多くの領地を拝領したのだからそれだけならいい。
だが、事前に命じていたにもかかわらず遅延をしてはそれを理由に手に入れたばかりの領地を召し上げられるかもしれない。
さらに焦ったのは毛利輝元。
遅延を理由に再び戦端を開かれては今度こそ滅びる。
絶対に光秀より前に四国に上陸しなければならない。
そして、どのような形であっても信長が満足する手柄を四国で立てなければならない。
秀吉は新たな領地の受け取りと支配体制の確立は弟長秀に任せ、自身は黒田勢、宇喜多勢などあわせて一万で四国にわたる準備を大急ぎでおこない、毛利も、輝元は吉川元春とともに領地に残り、小早川隆景が名代として五千の兵とともに四国に渡る準備をおこなう。
ちなみに、史実では羽柴長秀は本能寺の変後、秀長と改名することになるのだが、当然ここでは長秀のままで変わることはない。
そして、信長の四国上陸の八日前、秀吉軍が備後三原から来島通総を先陣として伊予今治付近に上陸、別行動となる隆景軍も同日信長に臣従している得居通幸の拠点鹿島付近に上陸を開始する。
この周辺は伊予の一大勢力となっている河野氏の領地。
だが、当主河野通直はもともと信長に対して協力的な姿勢を示しており、伊予に侵攻してきた長曾我部軍と戦っていた者。
むろん領地の安堵の確約を得るため恭順の意志を示し、本拠地湯築城を開城し侵攻してきた小早川隆景を迎え入れ歓待する。
これによって、伊予に残る反織田の勢力は長曾我部軍の数千のみ。
さすがに十倍の織田軍に勝てる見込みもないため、戦うことなく最近手に入れた伊予東の要衝川之江城まで撤退を開始し、もともと信長と同盟関係にあった西園寺氏の南伊予を含め、上陸開始後わずか十五日で伊予は事実上平定される。