天正十年七月 その時 四国は
七月二十五日。
つまり、信長が四国に姿を現したのは信孝率いる四国遠征軍が上陸してから約二か月が経過してからということになる。
だが、この間の戦況は必ずしも芳しいものとは言えなかった。
讃岐こそ十分な戦果を挙げていたものの、主戦場である阿波では戦線は膠着し、この二か月間ほとんど前進できていなかったのだからそう言われても反論できないだろう。
そして、これはわずか一か月で信濃、甲斐を占領した約半年前の甲州征伐とは雲泥の差である。
だが、これによって信孝や副将である丹羽長秀の将としての才が劣るかといえば、そうとは言えない事情があった。
裏切りが続出して日に日に兵が減っていった武田氏と違い、長曾我部軍は戦意旺盛。
さらに、甲州征伐時には武田方の三倍とも五倍ともいわれる圧倒的な数を動員していたわけなのだが、今回信孝とともに四国を渡ったのは一万四千。
すでに戦いを始めていた三好勢を加えても二万弱。
数で圧倒することができなかったのである。
いや。
数のうえではむしろ織田軍の方が劣勢と言えたのだ。
長曾我部軍の兵力。
大将長曾我部元親の手元にある兵は二万六千。
絶対数から言えば、非常に多いというわけではないのだが、元親の支配する地域の石高を考えればこれは異常ともいえる数字である。
この当時の平均的な石高あたりの動員人数は一万石あたり二百五十人とされる。
この時点での元親の支配地の石高は四十万から五十万石。
最大でも一万二千五百人がその数字となる。
だが、実際にはその倍以上。
その魔法のような数字のカラクリは「一領具足」と呼ばれる半農半兵の集団の存在。
しかも、この集団は数だけでなく質においても優れ、非常に強かったとされる。
その二万六千の兵を元親はこのような形に配置していた。
本国土佐に五千。
西園寺氏と戦う伊予南部に二千。
河野氏と戦う伊予東部に二千。
讃岐の西部に三千。
元親が四国制覇の重要拠点とした阿波西部の白地城から東方へのルートに五千。
本拠地土佐に近い阿波北部から南部に九千。
そして、織田と長曾我部の戦いの主戦場である阿波はふたつの戦線を抱えていた。
ひとつは織田軍上陸前に三好康長の調略により織田方に寝返った三好康俊の岩倉城と元親の拠点白地城までの地域。
岩倉城奪還のために長曾我部軍が三千で攻め寄せたものの、織田軍は信孝の側近岡本良勝が二千の兵を率いて援軍にやってきたため、戦力が拮抗し膠着状態に入る。
もうひとつの戦線である吉野川南部でも、一宮城、夷山城、さらに仁宇城、牛岐城まで落とした三好本隊と援軍として織田軍副将のひとり蜂谷頼隆三千が桑野城、日和佐城周辺で長曾我部軍と一進一退の攻防を続けていた。
ちなみに、織田軍には鈴木孫六率いる雑賀衆が参加していたが、長曾我部側にも多くの雑賀衆が参加しており、最強の鉄砲集団とされた雑賀衆は二分されたことになる。
そして、讃岐であるが、こちらは織田軍四国遠征部隊の総大将織田信孝が丹羽長秀とともに織田軍の主力約八千を率いて順調に攻略を進めていた。
兵力の分散は戦い方としては下策に属し、主戦場で動きがないのも織田の主力が讃岐攻略に向かっていたためであるのだが、そのようなことは信孝を補佐する丹羽長秀も十分に承知している。
だが、信孝を送り出した信長には、信孝がお飾りの大将ではなく実際に戦って自身の領地となる讃岐を手に入れてもらいたいという密かな希望がある。
むろん長秀も信長の意向を十分に理解している。
つまり、一見下策に思えるこの戦力分散には戦術以外の要素が多分に作用していたということになる。
さらにいえば、四国討伐に乗り出した六月の初旬の段階で、毛利とはすぐに和議が成立する運びになっている。
そうなれば、光秀だけなく秀吉、それから毛利の軍も四国に転用できる。
そうなれば、四国の戦いもすぐにケリがつく。
そのような算段が信長の胸の内にあった。
逆に長曾我部元親としてはこの二か月の間に織田軍に痛打を与え、有利な条件で和議を結びたかったところだが、この後に援軍が来ることがわかっている織田軍は信長の指示もあり無理な攻勢には出ず戦線維持に努めていたため、足止めされ讃岐への増派も阻止される。
そう。
一見すると、停滞に思えた阿波の状況も実を言えば兵の数が足りない織田方にとっては予定通り。
そして、その時がやってきたというわけである。
だが、この信長の四国上陸の影響はそれだけに止まらなかった。