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信長 四国へ渡る

東西に向かうふたつの軍の割り振りをおこない、追加で越後に向かう諸将に使いを出すと、信長はすぐさま安土を発し、京都へ向かう。

むろん四国へ同行する光秀もほぼ時を同じくして大軍を率いて現われ、細川親子もやってくる。

さらに堺まで移動する頃には池田恒興、中川清秀、高山右近ら摂津勢も合流する。

なお、光秀の与力となっている筒井順慶は自領である大和国に留まるよう指示を受けているが、これは畿内最後の抵抗勢力である高野山の抑えの意味が強い。


一方、安土で信長の出立を見送った信忠もその直後、岐阜城へ向かい、出陣の準備を整える。

そして、まず尾張、美濃勢を引き連れ出陣するが、ここに弟信雄も加わる。

さらに軍を進め、諏訪高島城で周辺を領する川尻秀隆の出迎えを受け、毛利長秀、徳川家康、穴山梅雪の軍と合流したところで越後に向けて進軍を開始する。


ちなみに、穴山梅雪は旧武田家の家臣で「武田」を名乗れる御一門衆の一人であるが、信長の甲州征伐に際し織田方に寝返っている。

そして、史実では家康とともの堺に滞在しているところで本能寺の変が起こり、本国に戻る最中に落ち武者狩りに討たれている。

そして、ここが重要なのだが、内応するにあたり、自身の家が武田家を継ぐことを認めるという約束を信長から取り付けている。

そして、甲斐南部、隣接した駿河での領地も合わせて二十万石ほどと、武田氏の全盛期に比べればその領地はだいぶ小さくなるがこれからまもなく梅雪とその子勝千代によって勝頼の死後半年も経たず武田家は復活することになる。


さて、ここから織田軍による本格的な四国攻めとなるわけなのだが、一応、これから三年後である秀吉による四国攻めの様子を簡単に説明しておこう。 

天正十三年六月二十五日から七月一日にかけて四国に上陸。

兵力としては淡路から阿波に約六万、播磨から讃岐へは二万七千、備後と安芸から三万。

三方向からの圧倒的兵力で攻め立てられた長曾我部軍は各地で敗退、七月二十五日に降伏。

八月六日ごろに講和が成立した。


ここでもほぼ同じ戦い方になると言いたいところであるのだが、その状況は三年後とはかなり違う。

まず、秀吉の四国攻めの際は、長曾我部元親はほぼ四国を統一していたのに対し、天正十年六月の時点で元親が支配していたのは讃岐の西半分と伊予の東、それに阿波の南だけで、阿波と讃岐では信孝軍の上陸で勢いづいた三好勢が攻勢に出ており、伊予も南は織田に近い西園寺氏、中央も毛利と近い河野氏という者が力を持っていた。


ちなみに、信長はすでに西園寺公広に伊予南部の領することを、さらに得居通幸にも領地の安堵を約束している。

唯一「本領安堵」の約束を手にしていない河野氏を率いる河野通直としては信長に認められ、領土を確保てもらわねばならないため、織田軍に積極的に協力することになる。


七月二十五日、信長は四国に渡った。


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