西か東か
勝家が使者を送った七月一日。
信長は岡山城で毛利輝元と小早川隆景に謁見していた。
このとき、その場に同席していなかった吉川元春は広島に急いで戻り一万の兵を揃え、万が一の場合には戦闘を再開するつもりで準備をしていた。
だが、四国へ兵を向ける必要がある信長は中国で戦闘を再開させる気などなく、人質を受け取ったところで、和議を正式に了承し、輝元に対し領国の引き渡しが完了次第、秀吉とともに四国攻略戦に参加するように命じる。
そして、自身も四国攻略戦に参加するため一度安土に戻ることになるのだが、そこで春日山城包囲の知らせを聞く。
それによって信長は自身の予定変更を強いられることになる。
まず、信長が当初予定していた四国攻略戦の概要を述べておこう。
六月初めに、三男信孝を大将、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄らの諸将をつけ、一万四千の兵で淡路を経由して阿波に上陸していた。
また、阿波では三好康長らが長曾我部の城を落とすなど攻略戦は順調に進んでいた。
だが、長曾我部元親は本国である土佐のほか、阿波の半分、讃岐の西側と伊予の東側も手に入れている。
一万四千程度の数ではとても屈服させられない。
そうなると、当然二の矢、三の矢が必要となるわけなのだが、もちろん信長はそれを用意していた。
毛利との休戦。
もう少しいえば、毛利が臣従する。
しかも、話はほぼ出来上がっていた。
そうすれば、中国攻めをおこなっていた秀吉だけではなく、新しく臣従した毛利の兵力を動員できる。
しかも、伊予の河野氏は毛利との関係が深い。
毛利を同行させれば上陸は容易で、途中の抵抗もなく長曾我部との戦いに臨めるという利点がある。
さらに手すきになっている光秀と配下も四国へ送り込み、一挙にカタをつけられる。
だが、勝家からの書によって越後出馬は避けられないことになる。
上杉討伐。
四国遠征。
どちらを優先すべきか。
信長としては思案のしどころとなる。