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序章

日本の歴史の大きな分岐点、いわば分水嶺ともいえる本能寺の変。

もちろん歴史好きには興味を引く出来事であることから本能寺の変を題材にしたIF物語は数多くある。

だが、その多くが本能寺の変で織田信長が生きていたらどうなっていたかどうなっていたかという話が始まり、明智光秀はあくまで謀叛人となる。


そこで明智光秀が命令通り秀吉の援軍に向かっていた、つまり本能寺の変が起きなかった場合にはどうなっていたかを考えてみたい。


まず、実際に本能寺の変が起きた天正十年六月二日の状況を確認しておこう。


最初は光秀が援軍にいくはずだった中国地方。

ここは備中高松城を取り囲む羽柴秀吉軍と援軍としてやってきた毛利軍が睨み合いを続けていた。

そして、秀吉からの援軍要請があった。


天正十年六月に亀山城を出た光秀の軍勢は一万三千とされる。

さらに同行する予定だった細川、池田、高山、中川の諸将を合わせると二万数千になる。


そして、光秀の援軍を待つ秀吉であるが、高松城を三万の兵で包囲していたとされる。


それに対し、敵方となる毛利勢だが、高松城には五千人、援軍として毛利家として動員できる最大兵力であろう五万ほどとなる。


三万対五万。

さらに秀吉は五千の兵が籠る城を包囲した状態。


カタログスペックだけ考えれば、毛利方が圧倒的有利。

それこそ長篠の戦いを逆の形で再現できそうなものである。


だが、毛利方は攻勢に出るどころか自領のうち五か国を差し出すことで和睦したいという提案をしている。


つまり、数字上では有利ではあるものの、実は追い詰められていたのは毛利側であり、ここに光秀率いる援軍が到着した場合は数字上でも同等になる織田方の有利は圧倒的なものになったと思われる。


続いて、四国。


四国統一を目指していた長曾我部元親に対し、信長は土佐と阿波の一部のみを領有することを認めると告げ、伊予を残しほぼ目的を達していた長曾我部元親は当然拒否し、衝突は避けられない状況になっていた。

中国侵攻が順調に進んだことで信長の四国侵攻計画が実行に移されることになり、三男信孝を大将、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄らの諸将をつけ、一万四千の兵を渡河の準備をしていた。

また、それとは別に織田軍の四国の拠点となる阿波では三好康長らが長曾我部の城を落とすなど準備が進んでいた。


ちなみに四国の石高は、土佐九万八千石、讃岐十二万六千石、阿波十八万四千石、伊予三十六万六千石。

天正十年六月の長曾我部氏は土佐の全土、讃岐の三分の二、阿波の三分の二、伊予の三分の一を勢力圏においていたという資料を参考にすれば、四十二万石の大名となる。

日本の旧参謀本部が示し、多くの場所で使用される「一万石あたり二百五十人」と軍役基準を使用して算出すれば、一万一千ほどの兵が動員可能となる。

ただし、ほぼ四国統一後に起こった秀吉との戦いでは四万人ほどの兵を動員していたとされる。

四国の石高で四万人の兵を動員するには一万石あたり五百二十人を動員する必要がある。

伊予を差し引いた四十二万石にそのとんでもない軍役をかけると二万人二千ほどの兵は確保できることになる。


次は北国。

もう少しいえば、対上杉戦ということになる。

本能寺の変によって得をしたのは、毛利や長曾我部という意見が多いようだが、織田と上杉の領地を見た場合、上杉もかなり厳しく、下手をすれば天正十年中、そうでなくてもその翌年あたりにはこの名門は甲斐の武田氏続いて歴史から消えていたこともありえることから、上杉にとっても本能寺の変は天祐のいえるものだったのではないだろうか。


では、天正十年六月の北国の状況を確認しておこう。


織田方の北陸方面の司令官は柴田勝家。

兵は四万。

史実にある本能寺の変の頃は越中魚津城を攻略中であった。

織田軍の魚津城攻略戦が始まると、上杉家当主上杉景勝は本拠地春日山城を出るものの、武田領地を平らげた織田勢は信濃、上野から上杉領を伺う様子を見せたため、あっさりと退却。

落城は時間の問題となっていた。

その後は越中から越後へ侵攻。

信濃北部の織田の武将森長可が五千を率いて越後に侵入。

いくつかの城を陥落させていた。

上野を任せられていたのは武田征伐の先鋒を務めた滝川一益。

ただし、こちらは周辺諸国との交渉中ですぐに全軍で上杉領に出るのは難しそうであった。

また、越後の北部では織田と手を結んだ新発田重家が動いていた。

そう遠くない未来に四方向から上杉氏の本拠地春日山城に攻め入るのは確実だった。


続いて、畿内で唯一信長の完全支配化されていなかった紀伊。

しかも、この地域には信長と敵対していた多数の僧兵を抱える高野山がある。

だが、信長は当事この地域に抑えにそれほど兵を割いていなかった。

つまり、比較的落ち着いた状態、少なくても、攻めてくることはないという状況だったと思われる。

しかも、元々信長とは比較的友好関係にあった根来衆だけではなく、雑賀衆も親信長派に転じた鈴木孫一によって本能寺の変直前に協力関係が築かれている。

これは非常に大きい。

なにしろ雑賀衆とは信長の本願寺攻めの際の主敵。

それが消えたのではなく味方になったのだから。

そうなると、この方面の主敵は本能寺の変を知った織田軍が退却したことにより勝利を得た高野山の僧兵ということになる。

ちなみに、その数三万六千。

その他、紀伊の反信長勢力を加わって四万強というところだろうか。


そして、関東。

ここの主敵は小田原の北条氏であるが、一応臣従の姿勢を見せていることもあり、平静を保っている。

そして、この方面の天正十年六月の状況を示しておけば、織田軍の将滝川一益は上野一国を支配していたとされるが、上野国と接する北武蔵の領主たちは信長に次々に臣従していた。

その中には、史実にある秀吉の小田原征伐で落城しなかった忍城の城主成田氏長も含まれている。


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