第90話(北の山の黒い影)
朝食を済ませた一行は、リリー宅でケイルと合流した。
昨日発見した偽造証書の報告のため、衛兵隊の詰所へ向かう。
白衣の白髪の男を探すのは一旦中止にした。
まずはレイジングハートの疑いを晴らし、衛兵の協力を得ることが優先だと判断したのだ。
リリーとセリアはクレイ隊長のいる事務所に入り、偽造証書について説明する。ケイルも後ろで控え、二人の会話を静かに聞いていた。
「…なので、三年前の記録としてこの証書は矛盾しています」
「理解した。紙を調べてみよう。もし君たちの言うことが正しければ、疑いは晴れるはずだ」
「それと、その件で、ここに居るケイルさんが、その白衣を着た白髪の男に……」
遠くから、レイも聴覚強化で話を聞いていた。これで疑いも晴れるだろうと安堵したその時――
カンカンカーン! カンカンカーン!
アルは咄嗟に聴覚強化を切った。
レイも耳を押さえて「びっくりした〜!」と声を漏らし、周りを見回した。
***
物見櫓の衛兵は望遠鏡を手に取り、まず海の方へ視線を向けた。
荒波に打たれる崖の岩肌、揺れる漁船、遠くに浮かぶ港。今日も穏やかだ。
(今日も平和だな……)
彼は小さく呟き、肩の力を抜いた。
次に、ゆっくりと望遠鏡を北の山側へと移す。
山腹を縫う街道や連なる森が視界に入る。木々の葉が風に揺れ、普段通りの景色が広がっていた。
しかし、ふと、視界の端に黒くうねるものがチラリと映る。
一瞬のことだったが、何か異様なものだと直感した。
衛兵は慌てず、もう一度視界を戻して確認する。
黒い影は間違いなく動いており、山からこちらに向かって迫ってきていた。
「……こ、これは……!」
胸に冷たいものが走り、すぐさま警報の鐘を鳴らす手を動かした。
鐘の音が町全体に響き渡る中、衛兵は急いで隊長のもとへ駆け込んだ。
「報告します。北の山腹で異常発生!黒い大きな影が動いています。魔物かもしれません。町に向かってきています!」
「なんだと!」
隊長は、物見櫓へと駆け出した。レイも他の隊員たちと一緒に詰所の外に出たが、建物が邪魔で山腹がよく見えない。仕方なく、レイは詰所と隣の建物の間にある二メルほどの隙間を見つめ、一気に飛び込んだ。
「よっ!」
壁を蹴り、反転して「はっ!」と三角跳びを繰り返し、瞬く間に屋根へと駆け上がる。
詰所の屋根にたどり着いたレイは、山腹に目を向けた。砂煙の中で黒くうねるものが確かに迫ってきているのが見える。アルが視覚強化をしてくれたおかげで、さらにはっきりと見えるようになった。
(アル、ありがとう)
(レイ、木登りとか、三角跳びの時は目を瞑らないんですね?)
(木登りとか、屋根に登るのとか、子供の頃から高いところに登るのは得意だったからね)
(…そうですか)
(なんか、その間が気になるんだけど?)
(まぁ、気にしないでください。それより先ほどの三角跳びですが…)
(何?おかしなことあった?)
(脚力を強化しなくても出来るようになりましたね)
「ええぇぇっ!」
レイは驚いて叫んだ。
(それより、山腹の黒い影を見ましょう)
(いやいや、強化してないってどういうこと?)
(最近、レイは栄養価が高いものを食べるようになったので、ナノテクノロジーを活用して体の能力を引き上げました。これを私は「ナノブースト」と呼んでいます)
(なんかオレってどんどん人間離れしてない?)
(いえ、ナノボットによる強化を行わなければ、まだ人間の範疇に入ってます)
(なんか気になる言い方だな、それ)
(詮索は後回しです。まずは目の前のことに集中してください)
(まぁ、アルを信じるよ。まだ、なんかボヤけるな)
(では、もう少しピントを調節します)
やがて木々の輪郭が浮かび上がり、さらに砂煙がはっきりと見えるようになった。焦点が遠くにピタリと合う。
「うわっ、魔物の群れだ!」
叫んだ瞬間、物見櫓にいた隊長が鋭い視線でこちらを睨んだ。
レイは慌てて頭を下げる。
「すみません」
だが隊長は眉をひそめ、問いかけてきた。
「お前、あれが見えるのか?」
レイはコクコクと頷いた。
隊長はさらに言葉を続ける。
「お前、人間離れしてるな。どんな魔物か分かるか?」
その言葉が胸に突き刺さり、レイは一瞬心にグサッときた。
だがすぐに気を取り直し、目を凝らして群れを観察し、声を上げた。
「先頭に見えるのはウサギのような魔物です。一角ウサギよりも大きそうですね。
その後ろにオオカミ系の魔物が続いています。……おっと、ワイルドボアもいますね。
さらに、そのボアの後ろにはトカゲの魔物も。
それより奥にも……なんか居るな。コボルトかな? どれもこっちに向かって来てます!」
「スタンピードじゃないか!」
隊長は叫ぶと同時に物見櫓を飛び降り、駆け出していった。
レイも慌てて隣の櫓へ飛び移り、階段を駆け降りた。
下に戻ると、隊長が大声で指示を飛ばしていた。
「山から魔物の大群が迫ってきている! スタンピードだ!!
ルイードとビンス、役場に行って避難誘導の人員を確保してこい!
アンドロ、冒険者ギルドに急ぎ連絡だ! 冒険者たちをかき集めろ!
ロコンとエイト、非番の者たちを招集しろ!
残りは斜面のバリケード前で防御態勢を整えろ!」
周囲の衛兵たちも次々に叫びながら指示を飛ばしている。
「領主様に連絡しろ!」
「避難場所は船と港の倉庫だ!」
「老人と子供を優先させろよ!」
「盾を持って来い!」
あちこちから怒号が飛び交い、騒然とした空気に包まれていた。
詰所の中は、まるで蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。レイは人の波から抜け出し、皆を探しに外へ出る。
すると、セリアが駆け寄ってきた。
「どこに行ってたの?」
心配そうに眉を寄せている。
続いてフィオナも現れた。
「探したのだぞ!」
少し怒った様子で言いながらも、その瞳には安堵の色があった。
レイは二人に説明した。
「屋根に登って山を確認したんだ。魔物の群れがこっちに向かってきてる」
二人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「それなら、ギルドに向かいましょう!」
セリアとフィオナが同時に言う。その直後、リリーとサラも駆け寄ってきた。合流した五人は顔を見合わせ、ためらうことなく走り出した。
通りでは避難する人々とすれ違い、子どもの泣き声や戸を閉める音が響いていた。
冒険者ギルドに到着すると、そこも混乱の渦中にあった。冒険者たちが武器を手に走り回り、スタッフが声を張り上げて指示を飛ばしている。全員が一刻を争う状況に追われていた。
――いや、ギルドに来るまでの道中でも、町全体がすでに混乱に包まれていたのだ。
(あ、C野郎もギルドに来てる)
(そのようですね)
(じゃあキャラバン隊もこんな時にファルコナーに来ちゃったのか。リオさんとかガラハドさん、無事だといいけど)
レイは心の中で仲間たちの姿を思い浮かべ、無事を祈った。
深く息を吸い、心を落ち着ける。これから何が起きても、自分にできることをやるしかない。そう覚悟を決め、レイはギルド内の慌ただしい光景を見回した。
外では、警鐘の音だけが町に響き渡っていた。
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