第85話(薬の成分)
翌朝、まだ街が目覚めきらぬ時間帯、レイは宿の前で魔術鞭の訓練に打ち込んでいた。ひんやりとした空気の中、朝靄が地面を淡く包む。
無心に体を動かしていると、通りの向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。小柄なシルエットと揺れる髪の色で、すぐに分かった。セリアとリリーだ。
(こんな朝から、何だろう…?もしかして、昨日の続き…?)
胸の奥がじわりと冷たくなり、訓練でかく汗とは別の汗が額に浮かぶ。
肩に力が入り、つい背をこわばらせる。だがセリアが口を開いたことで、その不安は杞憂に終わった。
「おはよう。レイ君……ちょっと相談があるの」
今日の朝食は宿屋一階の酒場シルバーシェルで取ることになった。集まったのは五人。六人がけのテーブルに着くと、向かい合う形でセリア、レイ、フィオナ。その向かいにサラ、そしてリリーが座る。
(女性ばかりで居心地が…)
レイは泣きそうになりながら席に着いた。
今日のレイの注文は、この店で名高い「グリルフィッシュ」だ。
値段はなんと二千ゴルド――銅貨二十枚である。
財布に風が吹く覚悟で注文したものの、夜の値段よりかなり安いらしい。
もちろん、レイの金銭感覚は相変わらずヘタレのままだ。
朝食を食べ終えると、リリーが口を開いた。
「それで、話というのは――」
セリアとリリーは、昨日の会議の後に起きた出来事――
衛兵隊のクレイ隊長に見せられた“偽の奴隷売買証書”のことについて話し始めた。
その証書には、三年前の日付と共に、二人の所属していたパーティ名と名前が記されていた。明らかに偽造された文書だと彼女たちは主張したが、クレイ隊長は納得せず、説明責任を求めたうえで、調査が終わるまではファルコナーからの外出を禁じたという。
「冤罪なんだけど……潔白を証明するには、もう真相を突き止めるしかないって判断したの」
「わかりました!全力でお手伝いします!」
レイは居心地の悪さを払拭すべく鼻息荒く立ち上がった。
「レイ殿、ひとまず落ち着くのだ」
フィオナが微笑みながら、肩に手を置いて諫める。
「それで何を手伝えば良いニャ?」
その偽の証書を配っていたのは、正体不明の男だったという。
そいつは、「過去の事件に関わった者に証書を届ける」という依頼を受けていたと語ったそうだ。
リリーがその男から証書を受け取った直後、男は煙のように姿を消してしまったらしい。
「何ですか、その胡散臭い男!」
レイがまたも立ち上がる。
「落ち着いて、レイ君」
今度はセリアが制止した。
「それで、その男と繋ぎをつけてくれたケイルさんに、もう一度連絡を取ろうと思ってるの」
「どうやって繋がってるのかも知りたいし……運が良ければ、黒ローブの男に直接たどり着けるかもしれない。仮にダメでも、こっちの人数なら尾行もできる」
「ふむ、了解した。私たちはそのケイル殿を見張り、接触の方法を探るとしよう」
「お願いできるかしら」
「ふむ、そう言うことなら任せてくれ」
「楽勝ニャ!」
レイはまだセリアに押さえられており、抵抗を諦めたようだった。
「それで、その偽の証書というのはどのようなものなのだ?」
「あ、いけない!家に置いてきちゃった!」
リリーはバツが悪そうに苦笑した。
「リリ姉っ!」
「まあ、後で私の家に来て。その時に証書を見せるわ」
それから、五人は街の外れにあるケイルの家へ向かった。先頭を歩くのはセリアとリリー。その後方を、一定の距離を置いてフィオナ、サラ、レイがついていく。家を囲むように位置を取ると、それぞれが視線を交わして頷いた。
コンコンコン。
リリーが扉をノックするが、中からは返事がない。
何度か叩くと、かすかに物音がした。だが声は返ってこない。
試しにドアノブを回すと、カチャリと扉が開いた。
家の中に、どこかおかしな空気が漂っている。
リリーはそっと足を踏み入れ、セリアも迷わず続く。
手招きに気づいたフィオナたちも、玄関まで集まってくる。
「ケイルさん!? ケイルさん! しっかりして!」
叫ぶリリーの声が家の中から響いた。息を呑んだレイたちは、すぐさま扉を押し開け、部屋の中へと駆け込んだ。
目に飛び込んできたのは、呆けたように立ち尽くす男の姿だった。焦点の合わない目、力の抜けた口元。まるで、自我だけが抜け落ちたようだった。
「うっ……」
脳裏に浮かぶあの魔物の瞳。レイは一瞬で胸の奥を掴まれたような感覚に襲われた。
(レイ、ストレス反応を感知。視覚負荷を軽減します)
(ありがとう……助かる。でもなんで、ケイルさんまで…)
(レイ、先日遭遇した魔物と同種の薬物による影響かもしれません)
アルの冷静な補足が、不安を胸にじわりと押し寄せる。
人間にまで、こんな症状が出るのかと思う。
レイは深呼吸して、ざわつく頭を無理やり落ち着けた。
「リリ姉、何があったの?」
セリアが、不安を押し殺して尋ねる。
「何か薬の影響かもしれない……精神を撹乱するタイプで、意識や感覚に影響が出ている可能性がある」
リリーの視線は鋭く、ケイルの様子から情報を拾い集めていた。
「誰かに薬を盛られたってことなのか? 何か残ってないか、痕跡とか……!」
フィオナが室内を見回した。
「この状況、ますます怪しいニャ……」
サラが耳を伏せ、低く唸った。
「まずは彼を落ち着かせないと。みんな、手を貸して! ベッドに運ぶわ!」
リリーの声に、全員が頷き、ケイルの体を支えながらベッドへと運ぶ。
肩がぶつかるほど狭い部屋の中で、各々が手際よく動いた。
ケイルを横たえた後、リリーは素早く診察に取りかかる。脈拍、瞳孔、肌の色。薬師としての目が、容赦なく異常を拾い出していく。
「……リリ姉、何かわかった?」
セリアの問いに、リリーは首を振る。
「このままじゃ診断できないわ。セリア、お願い。私の店のカウンター下の引き出しにある、手のひら大の木の箱を取ってきて。中に黒い布に包まれた板があるはず。それを傾けずに、丁寧にね」
「わかった、すぐ行く!」
セリアは迷いなく玄関を飛び出した。
リリーは振り返り、残った三人に視線を向ける。
「彼が落ち着くまで、この家を見張って。もし誰かが近づいたら、すぐに知らせて」
「了解した。私たちで守ろう」
フィオナが頷く。
「任せるニャ!」
サラも気合を込めた声で応じた。
レイは扉の内側に身を潜め、わずかに開けた隙間から外の様子を探った。
静まり返った通りに、人影はない。それでも胸の奥に根を張る不安が、簡単には消えてくれなかった。
少しして、息を切らしながらセリアが木の箱を抱えて戻ってきた。
リリーは慎重に箱を受け取り、蓋を開ける。
中から黒布に包まれた板を取り出すと、無駄のない動きでクロマトグラフィーの道具を組み立てていく。
ケイルの指先に小さな傷をつけ、滲んだ血を板の上に落とす。赤い染みが、ゆっくりと複数の色に分離し始めた。
「……この反応で、毒の成分がわかるかもしれない」
リリーは真剣な眼差しで紙を見つめる。数分後、浮かび上がった色のパターンに、彼女の表情がわずかに凍った。
「……ナイトシェードの抽出液に似た反応?」
リリーはその名を口にした瞬間、思わず背筋が伸びる。
他の者には何のことだか分からない。ただ、リリーの顔色の変化だけが、場の空気に微かな違和感を生み出していた。
「これ……井戸水に使われていたモノと同じ成分……?」
リリーが呟いた言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
だが、それだけで場に立ち込める緊張が強まった。
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