第76話(甦るトラウマとインフォームドケア)
二人は競うように走り、進む先に見える砂埃の中から、何かが激しく動いている様子が見えてきた。
その視界の先には村があり、山の麓から砂埃が立ち上っていた。
砂埃の中にかすかに見える影が、村に迫る脅威を物語っていた。
「少年、急ぐニャ!」
サラが叫ぶと同時に、レイもさらに速度を上げた。
山の張り出した部分を超えた瞬間、レイは目を見張った。
目の前には、一列に揃ったオークたちが村を襲っている光景が広がっていた。
オークたちは手に棍棒を持ち、村の柵を次々と壊している。
「みんな揃って棍棒を振ってるニャ! 変なオークニャ!」
とサラも驚きの表情を浮かべた。
レイは、オークが村を襲う様子を見て、子供の頃のトラウマを思い出してしまった。
子供の頃に見たオークは異様だった。目は焦点が定まらず、まるで虚空を見つめているかのようだった。
柵に手をかけたオークは、見えない何かに引っ張られるように、不自然にバランスを崩しながらも確実に柵を
破壊していった。
まるで、人形が無理やり動かされているかのようで、見る者に不気味さを感じさせた。
今、目の前のオークも同じだ。棍棒を振り下ろすその目は、虚ろで焦点が合っていない――あの時と同じだ!
その光景が重なった瞬間、レイの体は硬直した。
突然の激しいフラッシュバックに襲われ、身体が震え、冷や汗が滲み出す。
心拍数は急上昇し、呼吸は浅く速くなり、視界は揺らぐ。
かつての村の匂い、光景、音が鮮明に脳裏に蘇り、胃が締めつけられるような感覚に襲われ――
レイはその場で嘔吐してしまった。
その様子を観察していたアルは、即座に異常を察知した。
ナノボットを使ってレイの身体をスキャンし、心拍数の異常とストレスホルモンの増加を確認。
アルは即時対応として、ナノボット経由で神経系へ信号を送り、過剰に活性化している交感神経の沈静を図った。
サラは、隣で走っていたレイが突然止まり嘔吐したのを見て、すぐに振り返った。
「少年、大丈夫ニャ!?」
レイは右手で口を押さえながら、左手で村を指差し、その手を何度も振った。
その動きに、サラは「自分は構わない、先に行け」という意図を察する。
サラはすぐに駆け出し、バックパックを地面に投げ捨て、二本の剣を抜いて両手に構えた。
そのままオークの群れへと斬りかかっていく。
そのやり取りの裏で、アルはさらに介入を進めていた。
嘔吐中枢の興奮を抑えるため、ナノボットが脳内で神経伝達物質――セロトニンやドーパミンの放出量を制御。
消化管の迷走神経の活動も抑制し、脳への嘔吐信号を減少させた。
こうして、嘔吐の連鎖反応を止めようと働いていた。
サラはオークに接近するなり、素早く斬りかかった。
オークは棍棒を振り上げ、声も上げずに猛然と襲いかかってくる。普通なら「ブモォォ!」と叫ぶはずだが、何も発さない。
「ニャッ! そらニャ!」
サラは軽やかなステップで攻撃をかわし、右手の剣で腹部を狙う。
オークは棍棒を素早く振って受け流す。
「なかなかやるじゃニャいか!」
笑みを浮かべながら、今度は左手の剣で顔面を狙う。
オークは棍棒を掲げて防ぎ、反撃の一撃を振るう。
サラは体をひねってそれをかわし、逆に脇腹を鋭く斬りつけた。
「もう一回ニャ!」
連続で剣を繰り出す。オークは防御しきれず、喉元と腹部を切られ、倒れた。
「次ニャ!」
すぐさま次のオークとの距離を詰め、右手の剣で喉元を一閃。
オークは棍棒を上げる前に崩れ落ちた。
そこへようやくフィオナが追いつき、嘔吐しているレイの姿に驚いて立ち止まる。
「レイ殿、大丈夫か?」
レイは言葉を発せず、ただ手で村を指差した。
サラと同じように、レイの意図をフィオナも察する。
一瞬戸惑ったフィオナだったが、すぐに気を取り直した。
「待っていてくれ!」
そう言って弓を手にし、村へと駆け出していった。
レイは震える体を支えながら、彼女たちの背中を見送った。
戦っている仲間がいるのに、自分は動けない。そのことが情けなく、腹立たしかった。
(レイ、ゆっくり深呼吸をして、心を落ち着けてください)
アルの声が響き、同時に深呼吸の音が再生される。
「スーーーッ」……吸気のイメージ。
「フーーーッ」……吐息のリズム。
ナノボットが筋肉にリラクゼーション信号を送り、視覚と聴覚には一時的なフィルターがかけられた。
今のレイの視界には、オークの姿がぼんやりとしか映らず、輪郭さえ曖昧になるほど視力が抑えられている。
聴力も同様で、遠くの怒声や衝突音は、まるで水の中から聞こえるように鈍くなっていた。
過剰な情報を遮断されたことで、レイの身体は次第にリラックスし、揺らいでいた感覚も落ち着いていく。
(レイ、嘔吐中枢の神経伝達を抑制しました。それと一時的に視覚や聴覚を抑えています)
(ありがとう、落ち着いてきたけど……まだ吐き気がするよ…)
(吐き気を抑えるために、ナノボットが中枢神経に作用しています)
(ありがとう、助かったよ)
(レイ、今のトラウマ反応を軽減しましたが、再発防止のために予防策を講じます)
(予防策って、どうするの?)
(体内のホルモンバランスを整え、ストレス反応を抑えます。さらに、恐怖の記憶を安全な経験と結びつけ、心理的耐性を強化します)
(なんとなく分かった。嫌な記憶を安全な経験に変えていくってことだよね)
(はい。恐怖は記憶と強く結びついています。でも、それは克服可能なものです)
(……でもオークは、倒せるようになってたのに。なんでだよ……。あのオークの集団の目を見た瞬間、子供の頃の記憶が一気に蘇った……ついさっき一緒に戦う、守るって言ったばかりなのに…チクショウ…)
(レイ、大丈夫ですか?この処置には少し時間がかかりますが、いずれ冷静に対処できるようになります。
無理せず、自分のペースで行きましょう)
(ごめん…ありがとう、助かったよアル! でも悔しいな…)
(任せてください、レイ)
レイが再び村に目を向けると、サラは鬼気迫る勢いでオークたちと戦っていた。
一方、フィオナは弓を構え、矢筒から三本の矢を一気に抜き取ると、流れるような動きで弦にかけた。
呼吸を整え、狙いを定めて――
迷いなく弓を引いた。
三本の矢は同時に放たれ、音を立てて一直線に飛んでいく。
オークたちが気づいた頃にはもう遅かった。三本の矢は正確に命中し、次々に倒れていく。
「…すごいな、あんなの初めて見た! 発射された後の矢が見えなかったけど、あれ全部オークに当たったの?」
(ええ、当たっています。三本同時射ち。良い腕前です)
さて、自分も立ち上がらなければならない。
レイは剣に手を伸ばした。
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