第285話(撤退する者たちの真意)
エヴァルニアとの和平交渉を終え、部隊に戻る馬上でクレイン少佐は苛立ちを隠せず、ドレイガス大佐に問いかけた。
「大佐、なぜこんなに周りくどいやり方をしているのですか?和平交渉を経て、わざわざ撤退する理由が理解できません。単に攻め込めばよいのでは?」
ドレイガス大佐は冷静に答えた。
「クレイン、戦争は力だけで決まるものではない。和平交渉は時間稼ぎだ。撤退を装い、エヴァルニアに油断させる。彼らが守りを緩めた隙に、魔物部隊を送り込むつもりだ」
「魔物が撤退中のエヴァルニア軍を撹乱している間に、我々は無防備な国境へ進軍する。力で押し潰すより犠牲は少なくて済む」
クレインは少し納得しながらも、つぶやいた。
「和平交渉はカモフラージュで、狙いは魔物による奇襲というわけですね」
ドレイガスは頷き、続けた。
「その通りだ。魔物は我々の切り札だ。奴らを使ってエヴァルニア軍を撹乱し、我々は進軍する。正面突破よりも被害が少ない」
クレインは考え込むようにして言った。
「魔物が思い通りに動く保証があればの話ですね」
ドレイガスは笑みを浮かべて答えた。
「魔物は複雑な指示は無理だが、撹乱には十分だ」
クレインはさらに疑問を口にした。
「和平交渉で撤退を約束したのに、我々が進軍したら、国民の反感を買うのでは?」
ドレイガスは冷ややかに笑いながら答えた。
「そこは対策済みだ。エヴァルニアが魔物をある程度倒したところで、魔物は帝国側に逃げるように仕向けている。つまり、エヴァルニアが魔物を帝国に追いやったように見せかけるのだ」
クレインは一瞬驚いたが、すぐに納得して頷いた。
「なるほど。エヴァルニアが魔物を帝国に追いやった形になれば、国民の反感も避けられますね。逆に我々は正当な理由で反撃できるわけだ」
「そうだ。和平交渉の後に彼らが帝国に魔物を追い立てたと知れ渡れば、国民はどう思うか?」
「和平を破ったのはエヴァルニアだと、世論は彼らを非難する。われわれは被害者となり、戦いを正当化できる」
ドレイガスは冷たく言い放った。
「これが作戦の核心だ。そのための仕込みをマルコムが進めている。あとは結果を待つだけだ」
ドレイガスは冷たく言い放ち、会話を締めくくった。
***
それから四日が経った。
国境から撤退準備中のエヴァルニア軍は、帝国軍の動向を慎重に見守っていた。
高台に立つ偵察兵が望遠鏡で遠方の様子を確認し、報告を待つ指揮官たちは神経を尖らせている。
帝国軍もまた、同じようにエヴァルニア軍を観察しているだろう。
和平交渉通りに事が進んでいるかどうか、こちら側でも確認する必要があった。
⸻
「どうだ? 帝国軍の状況は?」
グレゴールが問いかける。
「はっ、撤退準備を行っているように見えます」
偵察兵が報告した。
「ふむ、ここまでは想定内か。油断するな。最後まで確認が必要だ。帝国軍の撤退が本格的に始まったら、すぐに報告しろ」
「はっ、了解です!」
そこにレイたちが状況確認にやってきた。
「どうですか? 帝国軍側の様子は?」
レイが尋ねる。
「帝国軍は粛々と撤退準備を進めていますが、レイ殿が仰っていた魔物はいまだに姿を見せませんな」
グレゴール国防大臣が返答した。
「山が多いですからね。隠れてしまえば見つけるのは難しいかもしれません」
「レイ殿、我々は本当に撤退しても良いのでしょうか?」
「はい。そうしないと敵も動かないでしょう。彼らの策は、こちらが撤退するのを待っているはずです」
「魔物軍の備えですが、本当に大丈夫なのでしょうか?」
グレゴールがさらに確認した。
「はい。軍の魔法師の方々にも協力いただいていますし、こちらでも有志を集めています。心配いりませんよ」
「本当に何から何まで任せてしまい、申し訳ありません」
レイは微笑み、軽く頭を下げて言った。
「私たちも同じ目的で動いていますから、気にしないでください」
周囲を見ると、エヴァルニア軍の兵士たちも忙しく撤退の準備を進めていた。
兵士たちは荷物をまとめ、馬に装備を積み込み、撤退の号令を待っている。
各部隊は統制の取れた動きを見せており、物資の整理や撤退経路の確認も着々と行われていた。
セリアがレイに声をかけた。
「レイ君、イーサンはいつまでに戻る予定なの?」
「イーサンは撤退が始まる明日までは粘って、魔法使いを探すつもりだと思います。
撤退が始まる頃には戻ってくるはずです」
「彼も労ってやらないとだな」
フィオナが言った。
「ええ、その通りです。イーサンがいてくれて助かっています」
レイは言い、軍の駐屯場所の少し先に歩み寄った。
後ろを振り返りながら、「この辺からでいいですか?」と尋ねる。
「ちょっと待ってね」
リリーが言い、歩幅で何かを測っていた。
「この幅で五列と山側に障壁でしょう? あの辺りからの方がいいかな?」
「了解です。じゃあ、まず一個作ってみます」
レイが返し、土魔法のライズで土を盛り上げ始めた。
周囲の土が凹み、高さ二メルの壁が出来上がっていった。
***
一方、帝国軍の陣地では、遠くに広がるエヴァルニア軍の様子を望遠鏡で観察していた兵士たちが、
奇妙な動きに気づいた。
見張り役の一人が報告に駆け寄り、ドレイガス大佐に告げる。
「大佐、エヴァルニア軍が奇妙な土壁を作り始めています。あれは…まるで迷路のように見えるのですが…」
ドレイガスは報告を聞き、望遠鏡を覗いた。
エヴァルニア軍がいくつかの土壁を連続して作っているのが確認できたが、
特に強固な防衛ラインには見えなかった。
「ふむ、くだらん障害物のようにしか見えん。あれが我々の進軍に何の影響を与えるというのだ?」
隣にいたクレイン少佐は戸惑いながらも慎重に言った。
「大佐、あの壁…何か意図があるように思えますが、ただの防御策にしては奇妙です。
あまりに単純すぎますし、彼らの撤退を考えると…あれは、もしかすると何か別の目的が…」
クレインは言葉を選び、不安を遠回しに伝えた。
魔物軍の存在はまだ極秘扱いのため、言及できない。あくまで慎重な推測に留めている。
ドレイガスはクレインの顔をじっと見つめ、冷たい笑みを浮かべて言った。
「クレイン、言葉に気をつけろ。あの程度の土壁が何か意味を持つと思うか?
あれではただの小細工に過ぎん。罠を仕掛けることもできんだろう。こちらから丸見えなのだからな」
クレインは慎重に頷き、これ以上深入りするのを避けた。
「確かに、あれでは我々の進軍には影響が少ないかもしれません。
しかし、念のため観察を続けたほうが良いでしょう。何か気になる動きがあればすぐに報告します」
ドレイガスはうなずいた。
「それでいい。油断はするな。だが過剰に警戒する必要もない。
エヴァルニアはすでに手詰まりだ。我々の計画は順調に進んでいるんだ」
その日、両軍はただ、撤退準備を進めていた。
帝国は、レイたちが残そうとしている“何か”に、まだ気づいていない。
そしてレイたちもまた、迫り来る脅威の全容をまだ掴みきれてはいなかった。
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