第279話(忍び寄る影)
帝国将校ラグナス少佐は、薄暗い執務室で額の汗を拭っていた。
焦りを感じずにはいられなかった。皇帝から直接命じられた暗殺任務が失敗に終わったからだ。
標的は現在エヴァルニアに滞在している大聖者。
だが想定外の要因で計画は崩れ、結果的に未遂に終わった。
この失態に対する皇帝の怒りは、想像するまでもない。
次の策がなければ、自分が処罰されるのは避けられなかった。
「……何としても、次は成功させなければならない」
ラグナスは机上の地図と書類を見つめながら思案する。
だが、すでに帝国内の人間に頼るのは限界だと理解していた。腕の立つ者はほぼ国外での活動をしている。
ならば、帝国の監視下から外れた暗部にいる人間を使うしかない。
「『オロチ』を探せ。成功率だけを考えろ。奴ならやれるはずだ」
部下に命じると、すぐに手配が始まった。
『オロチ』は、裏の世界でも名前だけは知られている。
素性には諸説あるが、貴族の家を捨てて各地を転々としながら暗殺術を習得したという話が有力だ。
任務のたびに標的を消し、証拠も足跡も残さない。
ただ一つ残すのは、黒光りする鱗だけ。
それが『オロチ』の仕事の痕跡だとされていた。
「やつさえ動けば、大聖者でも始末できる」
ラグナスは自分に言い聞かせるように、深く息を吐いた。
数日後、部下が戻ってきた。
「少佐、『オロチ』と接触に成功しました。『詳細を聞かせろ』とのことです」
「それと、条件が一つ。報酬は通常の三倍、しかも前金での支払いを求めています」
条件は重かったが、拒む余地はなかった。
「分かった。全額支払う準備を進めろ!今度は絶対に成功させる」
生き延びるには、それしかなかった。
***
ラグナスはその夜、オロチと会うために人気のない古びた倉庫へ向かった。
帝都の外れにある廃区画で、外部の者と接触するには適している場所だった。
倉庫の中は薄暗く、音もない。
進もうとした瞬間、声が背後から聞こえた。
「……ラグナス少佐だな」
身を反らしかけたその動きを、別の声が遮る。
「振り向くな」
声に気配はあっても、姿は見えない。
ラグナスはその場に立ち止まり、警戒心を抑えながら返事をした。
「……分かった。言う通りにする。お前が『オロチ』か?」
「そうだ。私が『オロチ』だ」
淡々とした声に、抑制された威圧感が混じっている。
「顔を見せるつもりはない。このまま話を進めろ。報酬もゆっくりと懐から出せ」
ラグナスは無言で頷き、懐から金貨の袋を取り出して横に差し出す。
誰かがそれを取った感触が手に伝わった。
「任務の詳細を書いた書類がある。それも渡しておく」
同じように、紙束も手渡すと、間もなく何者かがそれを受け取る気配がした。
「標的の名前は?」
「レイだ。十八歳。アルディア教会本部の正式な大聖者だ」
「……大聖者か。ということは、魔法も使えるな。系統は?」
「火、水、土の三属性。加えて、治癒魔法の適性もあると聞いている」
「その大聖者の戦闘経験は?」
「十分にある。元冒険者で、登録地はイシリア王国の都市セリン。出身は不明だ。
冒険者ランクはCだが、実戦経験は豊富だ」
紙を捲る音が静かに響く。
「護衛は何人だ?」
「五人。神殿騎士風の装いの女が四人と、従者が一人。全員が戦闘訓練を受けていると見られる。
そして現在はエヴァルニア市街地の宿に滞在している。場所と構造図は資料の最後に記載してある」
「……分かった。依頼は引き受ける」
それが最後の言葉だった。
すぐに気配が消え、ラグナスが振り返っても、そこには誰もいなかった。
空気だけが重く、沈んでいた。
ラグナスは倉庫の中で立ち尽くし、静かに息を整えた。
あとは、すべて『オロチ』に任せるだけだった。
今度こそ失敗は許されなかった。
それが、自分の命を繋ぐ最後の選択だった。
***
夜の闇が宿を包み込み、静寂が一層濃くなっていく。
『オロチ』は黒衣に身を包み、人の気配を断つように静かに動いていた。
影のように建物の外壁を這い上がる。
足音ひとつ立てず、動きに迷いはない。全身が暗殺という目的のみに研ぎ澄まされていた。
目的は、帝国軍の少佐が語っていたこと――その真偽を確かめること。
そして、もし標的が無防備であれば、そのまま仕留めるつもりでいた。
標的の部屋は三階にある。そこに、大聖者と呼ばれる男、レイが眠っているはずだ。
彼の動きはまるで影そのもので、一切の気配を感じさせない。
窓に到達し、そっと窓枠に手をかけ、ゆっくりと開けようとした瞬間――。
寝ているはずのレイが、突然、微妙に身を動かし、その顔を窓の方へと向けた。
『オロチ』は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。
窓の外にいる自分に対し、無意識に反応したかのように、レイがまるで自分を察知したかのように動いたのだ。
「なんて感の良いヤツだ…」『オロチ』は、薄く息を吐きながら、その俊敏さに驚嘆した。
一切の気配を感じさせないはずの自分に反応するとは、ただ者ではない。
『オロチ』は一度窓から引き返し、物陰に身を潜めた。
仕切り直す必要があると判断したが、時間が経てば経つほどチャンスが失われる。
すぐに別のアプローチを試みた。
音もなく部屋の反対側の壁に回り込み、今度は屋根裏から侵入しようとする。
しかし、彼が天井の板をズラした瞬間――レイが再び、無意識に動いて、その方向に顔を向けた。
「!」
「また気づいたのか…?」
オロチは一瞬、動きを止め、冷や汗が背中を流れるのを感じた。
こんなことは初めてだ。どんなに完璧に気配を消しても、レイはまるで感じ取るかのように反応する。
それでも引き下がるわけにはいかない。
オロチは体勢を整え、今度は扉の隙間を狙った。
扉の下から、わずかに針を滑り込ませる。
だがその瞬間――
扉の向こうから、微かな衣擦れの音がした。
レイが寝返りを打ったのだ。しかも、こちらに顔を向けるように。
(……気づかれた?)
完全に不意を突いたつもりだった。
だが、またしても見破られた気配がした。
「なんて奴だ…」
オロチは内心で苛立ちを隠せなかった。標的がこちらを無意識に察知しているかのようだった。
最後の手段として、オロチは天井の梁を利用して忍び寄ることを考えた。
静かに梁を移動し、宿屋の中を進む。
レイの部屋の端に差しかかる、その直前。
レイが、ゆっくりと目を開け、斜め上を――つまり、梁の方を見上げた。
そして、オロチと目が合う。
「やはり気づかれている…」
オロチは息を呑み、完全に見破られたことを悟った。
闇の中でレイの眼差しが鋭く光ったその瞬間、オロチは姿を消すように撤退した。
***
翌朝、レイはいつも通りすっきりと目を覚ました。
窓から差し込む朝日が心地よく、昨夜の疲れを感じさせない。
ベッドの中で軽く伸びをしたその瞬間、アルの声が頭の中で静かに響いた。
(おはようございます、レイ)
「おはよう、アル。珍しいな、朝から声をかけてくるなんて」
レイは軽く笑いながら返事をした。朝のアルからの声かけは珍しいことだ。
(昨日、少しだけレイの体をお借りしました)
「…えっ?俺の体を?何かあったの?」
レイは驚き、少し身を起こしてアルに問いかけた。
(はい。昨夜、高度な暗殺技能を持つ者が何度かあなたに近づこうと試みていました。
気配が分かったので、彼を少し脅しておきました)
「脅したって…どうやって?」
レイは半信半疑の表情を浮かべたが、心のどこかで納得している自分もいた。
(レイの体を一瞬だけ使わせてもらいました。
侵入者が窓から入ろうとした時、あなたの体を少し動かして相手に気づかせたのです。
結果として、彼はそれ以上動けなくなり、逃げていきました)
「なるほど…それで何もされなかったから、オレはぐっすり寝られたわけか」
レイは軽く息をつき、再びベッドに横たわる。
「でも、問題はなかったんだよな?」
(はい、特に問題はありません。昨夜は彼も退きました)
「さすがだな、アル。いつも助けてくれてありがとうな。
俺は全然気づかなかったけど、おかげでいい朝を迎えられたよ」
(どういたしまして。レイがぐっすり休めるようにするのも、私の役目ですから)
***
その日、教会関係者との会話中――
レイは通りに立ち、何気ない表情で相手と談笑していた。人通りもある。
周囲の目を欺くには、絶好の場面だった。
(昨夜の感の良さが――あれは、思い違いだったのか?)
オロチは屋根の上から、じっとレイの背中を見下ろしていた。
無防備だし、どう見ても警戒の様子はない。
今なら、やれる。
そう思わせるには、十分な光景だった。
オロチは呼吸を整え、吹き矢を構えた。
毒はバジリスク由来の神経毒である。刺さった瞬間、心臓に走る麻痺で意識を落とすはずだ。
狙いは首筋。距離も、角度も完璧だった。
シュッ。
吹き矢が陽光を裂くように一直線に放たれた。
だが。
次の瞬間。
レイが、振り向きもせずに、右手を挙げ、そして、吹き矢を、指先で軽々と摘み取った。
「……っ!」
オロチは、心臓を掴まれたような感覚に襲われた。
言葉が漏れそうになるのを、歯を噛んで押し殺した。
間違いない。確かに見た。レイは、今、背中に飛んできた矢を「見ずに」受け止めたのだ。
そのまま、彼は何事もなかったように会話を続けている。まるで、何かが起こったことすら感じさせない仕草で。
(……信じられん。どうやったら、あんな芸当が出来る……?)
オロチはその場を静かに後にした。
冷や汗が額を流れていた。自分の矢が、音もなく摘まれたという現実が、頭から離れない。
(仕切り直すしかない……)
振り返ることなく、オロチは屋根の影に消えた。
――同時刻。レイside――
「それで、教会の今後の動きですが――」
助祭司との会話中、突然、レイの意識の中で感覚がブツリと切り替わるような違和感が走った。
自分の身体が、自分の意思とは違う動きで右手を挙げる。
そして、何か小さな物体を摘み取った感触。
それが吹き矢だと気づいたのは、その直後だった。
(……アル、今のは?)
(昨夜の賊が、吹き矢でレイを狙っていたようです。
毒自体は脅威ではありませんでした。しかし今回は、威嚇による心理的効果を優先し、あえて
振り返らずに矢を摘み取ることで、賊に強い衝撃を与える方が効果的だと判断しました)
レイは、ほんの一瞬だけ頷きそうになるのを堪えた。
(了解。ありがとう、アル)
会話はそのまま続ける。
誰にも気づかれることなく――
まるで何事もなかったかのように。
***
次の日。オロチは人混みに紛れ、レイの背を捉えていた。
(昨日のは偶然だ。会話中とはいえ、周囲には一人しかいなかった。
吹き矢に気づかれたのも、音か気配のせいだろう。ならば――)
昼間の雑踏の中。群衆の流れに紛れ、すれ違いざまに一突き。それに気づけるはずがない。
ナイフの刃が光を反射する。懐に手を滑り込ませ、狙いを定める。
だがその瞬間、レイの身体がわずかに動いた。まるで、それを予見していたかのように。
ナイフは空を切り裂き、何もない場所を斬っただけだった。
オロチの胸に、ぞくりと冷たい戦慄が走る。
――同時刻。レイside――
昼下がりの市街地。年末の準備で、広場は活気に満ちていた。露店から立ちのぼる香ばしい煙。
子供たちの笑い声。人々のざわめき。
レイはその中を歩きながら、この国の日常を静かに見つめていた。
(レイ、左から何者かが来ます)
アルの声が短く鋭く響く。
レイはすぐに反応し、何気ない素振りで一歩、身体をずらした。
直後、すぐ背後で衣擦れの音とともに、刃が空を切るかすかな音が走る。
「……!」
レイが振り返ったときには、黒衣の男の背がすでに人混みに紛れかけていた。
深追いはしない。ただ、何事もなかったかのように歩を進める。
(アル、どうして気づけたの?)
(鞘や衣服の擦れる音ははっきり聞こえていました。ですが、足音だけが極端に小さかった。
人混みの中でそれは不自然です)
(……なるほど。音を消して近づいたのか。そりゃ怪しいね)
(その結果、逆に目立ちました。暗殺者や密偵の類と判断して、警告しました)
(ありがとう、アル。助かった)
(当然です、レイ)
***
さらに次の日。
通りを歩くレイに向け、工事中の建物の上から煉瓦が落とされた。
狙いは的確だった。だが、どれ一つとして彼に届くことはなかった。
煉瓦は空中で次々と粉々に砕け、細かな破片となって地面に散った。
突発的に「バキッ」「ガシャッ」といった音が響いたはずだったが、ちょうど工事中の建物からも
似たような音がしていたせいか――誰もそれを異常とは受け取らなかった。
降ってきたのは石の塊ではなく、砂のような微細な破片。
通行人たちは不思議そうに頭上を見上げ「埃でも降ってきたのか?」と首をかしげながら通り過ぎていく。
レイは静かに顔を上げ、建物の上空を冷静に見上げていた。
「クラッシュか……石を砕くだけの魔法だったけど、役に立ったな」
(そうですね。落下物の被害も出ませんでした)
「アルが、上にクラッシュを撃てって言わなかったら分からなかったよ」
(この騒音と喧騒の中、煉瓦が動く音だけで異変を察知するのは難しかったです。
ですが、空気の流れが一瞬変わった。私にとっては、十分な予兆でした)
レイの足は止まらない。あくまで自然に、人々の波に溶け込んで歩き続ける。
一方、建物の影に身を潜めていたオロチは、苛立ちを押さえきれなかった。
またしても失敗。正確に狙ったはずの煉瓦が、一つ残らず砕かれていた。
「……完全に見透かされてる」
どうしても届かない。どんな手を打っても、あの男には通じない。
最後に、暗殺術を用いた直接戦闘の可能性も考えた。
だが、オロチには勝てるビジョンがどうしても浮かばなかった。
「何をしても無駄か……こいつは、ただ者じゃない。俺のすべてを読んでやがる……」
食いしばった奥歯から、痛みを感じるほどの力がこもる。
それでも、認めざるを得なかった。
――全面敗北だ。
「このまま続けても、命を落とすだけだろう」
カラスは静かに視線を落とし、レイを暗殺対象から外す決断を下した。
彼は依頼者との契約に則り、前金を返すことを選んだ。
静かな足音を立てながら、寝ているラグナスの部屋へ忍び込む。
枕元に袋詰めされた全額の前金をそっと置き、黒い鱗を残すと、無防備に眠るラグナスを一瞥し、
薄く笑いを浮かべながら呟いた。
「こいつがターゲットなら、簡単なのにな…」
その言葉を残し、オロチは音もなくその場を後にした。
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