第276話(雪合戦と帝国の影)
レイたちがザリア自治領を後にし、エヴァルニア国境に近づくにつれて、風景が少しずつ変化していった。
広がっていた農地は減り、代わりに見渡す限りの草原が広がる。
道沿いにぽつりぽつりと並ぶ石造りの小屋や、風に揺れる草花には、かつて存在したシエル王国の
名残が感じられた。
エヴァルニア国境の門は、ザリアに比べるとずっと簡素だ。
しかし、警備は行き届いていた。
門前には数人の兵士が立っており、その眼差しには明らかな警戒心が宿っている。
馬車が近づくと、兵士の一人が手を上げて停車の合図を送った。
だが、彼らはすぐに異変に気づいた。馬車を引いていたのは、ただの馬ではない。
巨大で力強いスレイプニルだ。
兵士の一人が驚いたように目を見開き、隣の仲間へと視線を送る。
イーサンが馬車を止めると、レイがゆっくりと馬車から降りた。
兵士たちは彼の動きに警戒を強めるが、レイは胸元から四大神教会のメダリオンを取り出し、掲げた。
「私は、四大神教会に任命された大聖者――レイと申します。ここを通して頂けませんか?」
兵士たちは一瞬、硬直したように黙り込んだ。
しかし、やがて一人が我に返ったように、慌てて深く頭を下げる。
「大聖者様…! どうぞお通りください!」
馬車が再び動き出すと、その場の緊張が少しずつほぐれていく。
車内では、セリアが小声でつぶやいた。
「無事に通れてよかったわね」
フィオナも軽く頷く。
「ひとまず第一難関突破と言ったところか。無事に通過できてよかった」
レイはスレイプニルの動きに合わせて息を整え、静かに肩の力を抜いた。
「一応、この国は今、戦時中扱いですよね。なんとか通過できて良かったです」
リリーが窓の外を見ながら言った。
「状況を考えたら、もっと厳しくされるかと思ったわ」
「ザリアより厳しいニャ。ザリアは国境すら守ってないニャ」
馬車はやがて街へと入り、エヴァルニアの街並みが窓の外に広がった。
屋根はやや急な勾配で、ところどころに雪が積もっている。北国特有の造りだ。
レイにとっては、人生で初めて間近で見る雪景色だった。
以前アルに「雪が降るか?」と聞かれたとき、彼はそれが何を意味するのかすら分からなかった。
シラネー山脈の頂に見える白いものも、岩肌だと思い込んでいたほどだ。
街角に差し掛かったとき、建物の端に積もった白い塊に気づき、レイは首を傾げた。
「あれは…何ですか?」
不思議そうに尋ねるレイに、セリアが驚いて振り返る。
「レイ君、もしかして雪を見たことないの?」
「はい。初めて見ました」
素直な答えに、セリアは笑みを浮かべる。
「ふふ、今はまだ少ししか積もってないけど、もっと降ると大変なんだから!」
馬車が教会の前に到着し、レイは外に降りて積もった雪を手に取った。
ひんやりと冷たく、軽くて、手の中で形が変わる感触が新鮮だった。
「雪って、こんなに冷たいんですね」
その姿を見たセリアが思いついたように雪を丸め、突然レイに向かって投げつける。
「これが雪合戦よ! えいっ!」
だが、レイはそれを軽々と避けた。
セリアは驚きつつも、笑いながら続けた。
「もう! おとなしく当たりなさいよ!」
彼女は次々に雪玉を作ってはレイに投げたが、レイはすべてを難なく避ける。
フィオナやリリーも加勢し、雪玉を手に取り始めるが、それでもレイに当てることはできなかった。
「レイ君、手加減してよ!」
「いやいや、セリアさん、こっちこそ言いたいですよ。身体能力、上げてますよね?」
そんな軽口を交わしながら、しばらく雪合戦が続いた。
その時、教会の門前からイーサンの声が響く。
「レイ様、大司教様がお見えです!」
全員が我に返り、互いに顔を見合わせる。
レイたちは雪を払いつつ教会の前へと向かった。
教会の門前には、大司教が穏やかな表情で立っていた。
レイは深く礼をし、四大神教会の作法に則った挨拶を行う。
「申し訳ありません。雪が初めてだったもので、ついはしゃいでしまいました」
息を白く吐きながら、レイは少し恥ずかしそうに笑った。
大司教は温かな笑みを浮かべた。
「初めての雪とは、それは素晴らしい体験ですね。どうぞ中へお入りください」
「ありがとうございます。とても冷たくて、びっくりしていたところです。
あ、申し遅れました。私は五代目大聖者に任命されたレイと申します。よろしくお願いいたします」
丁寧に名乗るレイに、大司教は静かに頷き、教会の中へと招き入れた。
「初めての雪が、少し冷たいかもしれませんが、それもまた味わい深いものです。
年が明けると、この街全体が雪に覆われますよ。
幻想的ではありますが、住民たちにとっては、雪かきや寒さが悩みの種にもなります」
レイは頷いた。
「そうなんですね。雪が積もる街というのは、どこか神秘的な印象を受けます」
そう言いながらも、レイの頭の中には、これからの交渉のことが浮かび始めていた。
しばらくして、彼は大司教に静かに問いかけた。
「ところで、今のラドリア帝国はどうなっているのですか? 国境線に集結していると聞きましたが、
具体的な動きはまだ見られないと…」
大司教は少し眉をひそめた。
「おっしゃる通り、帝国は今、国境近くに兵を集結させているとの報告が、国の上層部から入っております。
しかし、表立った侵攻はまだありません。何かを待っているようでもあります。
動きが鈍いことが、逆に気がかりだとも聞いております」
レイは静かに頷く。
「そうですか…帝国の動きが気になりますね。それと、この国での交渉の席について、
どなたが参加されるのですか?」
大司教は穏やかな表情で答える。
「大聖者様が交渉に臨まれるということで、国の大臣がその場に出席する予定です。
大臣は、大聖者様のお話を聞き、今後の方針を固める役割を担うことになります」
***
一方、帝国の広間には張り詰めた空気が漂っていた。
皇帝は仮面の奥から冷徹な視線を将校たちに向けている。
エヴァルニア国に大聖者が到着し、和平交渉に入るという報告が届いてから、
静かな怒りが皇帝の胸中で渦巻いていた。
ひとりの将校が慎重に報告した。
「陛下、教会より報告がありました。大聖者がエヴァルニア国に入り、
和平交渉の準備を進めているとのことです。
また、我が国にも和平交渉の提案が届いております」
その報告に、皇帝の金属製の仮面の奥から冷たい声が響いた。
「和平交渉、か…」
ラグナス少佐は皇帝の意思を静かに待ちながらその場に動けずにいた。
しばらくして、皇帝はラグナス少佐を近くに呼び寄せた。
耳元で低く、冷たい声を落とす。
「大聖者を消す準備を進めよ。和平が成立する前にな。
ただし表立って手を下すな。教会を敵に回すのは得策ではない」
ラグナスは静かに頷き、慎重な声で答えた。
「陛下のご意向、承りました。
ですが、大聖者は教会の象徴であり強固な護衛を持っています。
確実に実行するには慎重な準備が必要です」
皇帝はわずかに目を細めた。
直接手を下すにはやはり慎重を要する。
それでも和平交渉はただの邪魔に過ぎなかった。
「ならば暗殺者を送り込め。
教会の手が届かぬように慎重に進めるのだ。
何としても大聖者を消し去れ」
ラグナスは深く頭を下げた。
「仰せのままに、必ず成功させます」
その声を背に、ラグナス少佐は静かに広間を後にした。
暗殺の準備が進む中、皇帝はひとり仮面の奥で冷たく微笑んだ。
一人になった皇帝は、地図を見下ろしながら冷笑を浮かべた。
「あの場所さえ見つかれば、
この国も、この皇帝という立場も、教会も和平も、全て意味がなくなる。
だが、それを知る必要があるのは私だけだ」
皇帝は静かに手を握りしめ、イシリア王国の南東部に視線を定めた。
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