第242部(癒えぬ傷と仲間の決意)
三年前の奴隷売買事件のとき、レンドは腕に深い傷を負った。
だがリリーの迅速な応急処置により、彼の出血は止まり、一命を取り留めた。
リリーは薬師としてできる限りの処置を施し、治療に尽力した。
しかし、深く切り裂かれた腕の損傷は予想以上に重く、彼は二週間にわたり薬草治療を受け続けることになった。
薬草と手技を尽くしても、内部の損傷が徐々に悪化している兆候を、リリーは見逃さなかった。
「傷は塞がったけれど、血の巡りが悪いみたい。何かが根本的におかしいわ…」
リリーは不安げに呟いた。薬師としての無力感が胸に広がっていた。
どんなに薬を調合しても、手を尽くしても、レンドの腕は元には戻らない
――その現実が、彼女を突き刺していた。
それでも、レンドは笑みを浮かべて言った。
「もう充分だよ、リリー。世話になった。お前のおかげでこうして生きていられるんだ。それに……」
一呼吸置いて、彼は目を伏せる。
「俺は冒険者を引退するつもりだ。もう昔みたいに戦えない。
それが現実だ。リバーフォード村に戻って、静かに暮らすよ」
リリーは驚き、何かを言いかけたが、彼の決意を感じ取って口を閉ざした。
「そう…」
小さく呟いたその声には、深い後悔が滲んでいた。
もし自分にもっと知識があれば、もし他の治療法があれば
――その問いは彼女の中で、今も消えることはなかった。
レンドがファルコナーを去ろうとしたその時、リリーは彼の背に声をかけた。
「あ、レンド、待って。これを持っていって。
お医者さんにもちゃんと見せてね。私ができることは少ないかもしれないけど、諦めないで」
小瓶を手渡すリリーに、レンドは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、リリー。お前には本当に感謝してる」
そう言って彼は村へと帰っていった。
──しかし、リリーの不安は的中した。
ファルコナーを離れてしばらくすると、レンドの腕は次第に痛みを増し、
皮膚の色が変わり、冷たくなっていった。
傷の内部で血流が完全に遮断され、壊死が進行していた。
初期の処置では防ぎきれなかった深刻な血管損傷が、静かに、しかし確実に彼の腕を蝕んでいたのだ。
数週間後、耐えられない痛みに襲われたレンドは、グリムホルトの医師を訪ねた。
だが、その時にはすでに手遅れだった。
壊死は手首から肘にかけて広がっており、命を守るため、腕の切断を余儀なくされた。
それは彼にとって辛い決断だったが、生きるためには避けられない選択だった。
その後、レンドはリバーフォード村に戻り、静かな農作業に身を投じる生活を始めた。
***
「…と、まあ、こんな感じで自分でも、こりゃ失敗だったかと思ったんだが、その時には手遅れだったのさ。
リリーが居てくれても治るとは限らなかっただろう?」
レンドは苦笑混じりに言った。
「そんなの、わからないわよ」
リリーは悔しそうに言い、手元のカップを見つめた。
そこには、リバーフォードで採れたハーブティーが注がれていた。
「まあ、これも運命だよ」
レンドは静かに答えた。
すると、セリアが口を挟んだ。
「リリ姉、今は休みましょう」
リリーは一口だけティーを飲み、ようやく肩の力を抜いた。
「そうね……少し疲れたわ」
その夜、リリーはレイのもとを訪れた。
「レイ君、無理なのは分かるんだけど、アルに聞いてもらいたいことがあるの」
「何ですか、リリーさん。そのまま話してもらっても大丈夫です。アルは聞き取れてますから」
レイが落ち着いた声で答えると、リリーは静かに尋ねた。
「彼の腕って、アルでも無理なの?」
(レイ、紙を準備してください。説明しますので)
レイは静かに頷くと、バックパックの中から一枚の紙を取り出した。
それを両手でピンと張り、皆の前に掲げる。
「これ、前にアルとやった方法です。今から紙を振動させてアルに話してもらいますね」
紙が微かに震え、すぐに落ち着いた低い声が聞こえてきた。
「アルです。この紙を通してお話しします」
一同がその様子に息を呑む中、紙を通じたアルの声が続いた。
「ご質問の件ですが、無理ではありません。ただし、“再生治療”になります。
組織の代替になるものを準備し、細胞をレンドさんに合わせて一から作っていく必要があります。
再生には時間がかかります。概算ですが、一ヶ月はかかると思ってください」
「そんなにかかっちゃうのか……それじゃ、簡単にお願いできることじゃないわね」
リリーはため息をつき、紙を見つめながら言った。
紙はさらに震え、アルの声が続いた。
「もう一点、重要な懸念があります。
この世界で“再生治療”という概念が知られていない場合、レイがどんなに“聖者”として認められていても、
大きな衝撃と混乱を招く恐れがあります。施術が目撃されれば、その影響は計り知れません」
紙の振動が止まり、静寂が戻った。
するとレイが小さく息を吐いて言った。
「でも、リリーさんのお願いですから、多少の無茶はしてもいいかなって思ってます」
リリーは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、レイ君。それだけでも嬉しいわ」
すると、セリアが真剣な表情で言った。
「リリ姉、多分危険よ。そんなことができる聖者を、権力者が放っておくわけがないわ」
リリーも頷いた。
「そうよね。私はこれでも護衛の立場。護衛対象を危険に晒すわけにはいかないわね」
「リリーさん、すみません……」
レイが申し訳なさそうに言うが、リリーは静かに首を振った。
「いえ、レイ君が謝ることじゃないわ」
彼女の目が鋭くなった。
「伯爵様から聞いたんだけど、三年前の事件には『闇の商人』というヤツも関わってたらしいわ。
奴隷売買と違法薬物の販売。そして、ドクター・クラウスは病気に見せかける毒薬を作っていたの。
クラウスのところに頻繁に顔を出していたのは黒いローブの男よ。
あの三人、昔から繋がってたんじゃないかしら?」
リリーは続けた。
「黒いローブの男は、帝国で魔物使役薬を助手に作らせていたでしょう?
それに、奴隷売買の記録にも精通していた。ドクター・クラウスが作った薬物を、闇の商人が
売っていたと考えると、それを仕切っている黒幕はあの男で間違いないわ。絶対に償わせてやる!」
「リリ姉、それは私も一緒よ。ドクター・クラウスが亡くなっても、あの事件が終わったって
心から思えないのは、あの黒いローブの男の存在があるからだと思うわ」
セリアも強く同意する。
二人の決意に、一瞬張り詰めた空気が流れた。
黒いローブの男――その追跡は、彼女たちにとって最大の目的となりつつあった。
***
翌朝、レイは泊めてもらったお礼として、畑の整備を手伝うことにした。
収穫はすでに終わっており、畑の土を掘り返す作業が残っていた。
レンドが昨日一日かけて作業を進めていた場所だ。
「孤児院に居た頃から畑の世話をやってたので得意なんです。鍬を二本お借りしますね」
レイはそう言って、躊躇なく両手に一本ずつ鍬を持った。
その様子に、レンドや周囲の村人たちは目を丸くする。
通常、鍬は両手で一本を扱うものだ。
それを片手に一本ずつ、計二本を持って構えるレイの姿は、明らかに異様だった。
レイは一つ深呼吸すると、内側でナノボットによる筋肉の精密制御と反射速度の強化を発動。
さらに、自らの魔力で身体能力を引き上げる。
次の瞬間、彼の動きが変わった。
鍬を交互に振る動作は、風のように素早く、まったく無駄がない。
一振りごとに地面が正確に掘り起こされ、土はふわりと舞い、やがて静かに降り積もっていく。
その様子はまるで、精霊が畑に手を加えているかのようだった。
「なんだあの動き……まるで精霊様が土を動かしてるみてぇだ……」
一人の村人が呆然と呟く。
「いや、あんな速さで耕すなんて……リリーとセリアの仲間は、バケモンだな……」
レンドも驚きと呆れを交えた声でつぶやいた。
レイは両手の鍬を絶妙なタイミングで操り続け、他の者が数日かける作業を、わずか数刻で終えてしまった。
整えられた畑はまるで見本のように美しく、均された土は柔らかく、無駄な踏み跡すら残っていなかった。
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