第152話(密偵の脱出劇)
レイは一階の捜索を終え、次の行動を慎重に考えていた。
屋敷の構造を調べた結果、この建物には地上三階に加えて、地下にも何かが隠されていると判明した。
密偵としての本能が告げていた。
「何か重要なものが地下にある」
それはまさに“お約束”の展開で、レイの心の中にいる闇の密偵がざわめいていた。
地下へ続く階段は、屋敷の中央付近にある。上階と地下を繋ぐ、メインのアクセス路だった。
レイはその階段を静かに降り、暗闇に包まれた地下の廊下に足を踏み入れた。
だが、ナイトビジョン機能のおかげで視界は明るい。
ドアの位置もすぐに確認できた。
レイは端末を取り出し、地下の構造をスキャンし始める。
「アル、この地下の構造だけど、この部屋だけここから行けないみたいだ」
(一階から別の階段を使って降りるようです。レイ、マップを結合してください)
「どうやるの?」
「一つ手前の操作に戻って、そのマークを一つ動かして重ねてください」
レイは言われた通りに操作した。
「こうか?」
「それでマップが結合されました。地下の部屋に向かう階段もスキャンできていますね」
レイはマップを見つめながら考えた。
明らかに、その部屋には屋敷の主が隠しておきたい“何か”がある。
レイは気を引き締め直した。
見張りをかいくぐり、地下の別の部屋へと通じる一階の部屋にたどり着く。
だが、そこにはテーブルと椅子。見張りの男が一人、椅子に座っていた。
部屋の中を素早くチェックする。
この部屋は見張りの詰め所も兼ねているようで、防具や武器が詰まった木箱が至る所に置かれていた。
レイは慎重にドアを少しだけ開け、男が別の方向を向くのを待つ。
男がテーブルに手をつき、頬杖をついた瞬間を狙い、レイは静かに侵入した。
無音で動ける「サイレントステップ」のおかげで、見張りに気づかれることはなかった。
レイはすぐにドアの横にある木箱の陰に身を隠し、次の行動を考える。
油断は禁物。この部屋を通過して地下へ行くには、見張りを無力化するか、あるいは気づかれずに通り過ぎなければならない。
木箱の陰から周囲を伺う。見張りは完全に気を抜いていた。
レイは、かつて読んだ「影の密偵」の物語を思い出す。
あのシーンを思い浮かべた瞬間、もう迷いはなかった。
背後に回り込み、手刀で一撃。
見張りは静かにテーブルに突っ伏して気絶した。
「決まったな!」
そう言って、レイはスキップしながら地下へ降りていった。
潜入任務をすっかり忘れて、楽しんでいる証拠だ。
「あれ、このシーンって闇の密偵シリーズだったかな?それとも黒の密偵シリーズ?」
(潜入中にシリーズの区別で迷う人が、本物の密偵なわけがないと思いますが?)
アルの声には、しっかり冷気がこもっていた。
地下に到着すると、そこは異質な雰囲気に満ちた部屋だった。
壁には薬品がずらりと並び、用途の分からない複雑な装置もある。
レイは思わず呟いた。
「うわ、なんだここ……。何かの実験室って感じだな…」
机の上には、細かい数式や化学式が書かれた紙が散らばっていた。
だが、それらはどれも断片的で、決定的な証拠にはならない。
「都合の悪い紙だけ隠したってわけか……?」
レイは周囲を見回し、念入りに部屋の中を探り始めた。
(レイ、巡回の気配が近づいています。あまりゆっくりはしていられません)
「分かってる。でも、これだけじゃ帰れない」
薬瓶、道具、装置――どれも異様だが、証拠としては弱い。
レイは棚の奥、机の裏、床の継ぎ目まで手を伸ばす。
やがて、引き出しの奥にある小さな板に違和感を覚えた。
軽く押すと、かすかな音とともに仕切りが開き、中から小箱が現れる。
「……あった」
箱の中には、一枚の書簡。
重厚な紙に、達者な筆致で命令文が綴られていた。
差出人は「将軍レイヴン」、宛先は「ドクターサイモン」
使役薬の増産、そして年末までにフロストッチの砦へ送れという指示が、明確に記されている。
「ようやく見つけた。これは――動かぬ証拠だ」
レイの拳がわずかに震えた。
子供の頃、村を襲ったあの魔物。異様な目。あれを生み出したのが、こいつらだったのか。
胸の奥から怒りがせり上がり、今すぐにでも机を叩き壊したくなる。
(レイ、落ち着いて。敵地の内部です)
アルの静かな声に、レイは我に返った。
「……分かってる。悪い」
レイは素早く内容を読み取り、アルにも記憶させる。
万が一持ち出せなくとも、情報は残る。
(そろそろ限界です。急ぎましょう)
「了解。こんな胸糞悪いところ、もう居たくないからね」
そのとき、端末が振動した。
画面には、敵が上の階から接近しているとの警告。
さっき気絶させた見張りはまだ倒れているだろうが、隠れている猶予はなさそうだ。
「アル、プランBだ!」
レイは即座に判断を下す。
部屋に入ってきた見張りが、テーブルに突っ伏している仲間を見て、声を上げた。
「ドクターの旦那、どうしたんだ!」
男は髪を乱し、喉に手を当てながら苦しげに階段を指差す。
「誰か侵入したんですね?」
問いかけに、男は無言で首を縦に振った。
見張りは階段を駆け上がり、叫ぶ。
「侵入者だ! 侵入者が出たぞ!」
その隙に、テーブルの男――つまり、ドクターサイモンの姿をしたレイは、静かに立ち上がり、階段へと歩を進めた。
アルのナノボットによる皮膚硬化と変装機能により、昼間に見たドクターサイモンそっくりの姿になっていたのだ。シャツのエンチャント機能もオフにして、ただの白シャツに戻す。
「侵入者が白シャツ着てるなんて誰も思わないよな」
レイは得意げに微笑んだ。
このまま玄関まで――そう思った矢先、まさかの鉢合わせが待っていた。
お互いに、同時に声を上げる。
「あーっ、ドクターのおじさん!」
「あーっ、私の顔!」
一瞬で事態のまずさに気づいたレイは、即座に反転し、階段を駆け上がる。
「チクショウ、あと少しで出られたのに!」
その声には、明確な悔しさがにじんでいた。
(まあ、そう簡単には逃してくれないでしょうね)
アルは冷静だった。
「じゃ、あれをやるしかないの?」
(はい、シャツを脱いでください。いくら修復機能がついてるとはいえ、破くと時間がかかりますから)
レイは四階まで駆け上がり、テラスに飛び出す。
背後から、迫る足音。
「やっぱりやるのか……出来れば避けたかったんだけどな」
レイはドクター・サイモンの顔を解除し、本来の顔に戻す。
深く息を吸い込み、両手を広げてテラスの縁から飛び降りた。
その瞬間、アルがレイの皮膚を硬化させ、背中に翼を形成した。
無数のナノボットが皮膚の下へ潜り込み、筋繊維と骨格構造を再構成していく。
(変形率、最小経路を確保――皮膚の伸縮は限界値内に収まります)
アルの報告とともに、背中の中心部がわずかに隆起し、滑らかに翼が展開された。
肉を裂くような痛みはない。細胞の形を極限まで利用して、最も効率的な形状に変化したからだ。
風を受けて、薄膜の翼がしなやかに広がる。
レイは息を整え、滑空姿勢に移った。
夜風を切り裂きながら滑空し、月光がその翼を照らした。
「……これじゃまるで人間コウモリだな……もう人を辞めてるじゃないか!」
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