第144話(伝説との出会い)
「い、いくぞ…! さん、にい、いち…スタート!」
レイの声が響いた瞬間、サラが地を蹴って飛び出した。
ジャンプシューズの効果で、まるで風に乗るように軽やかな加速を見せる。
最初の十メルを一瞬で駆け抜け、その勢いのまま一直線に草原を突き進んだ。
だが、スレイプニルは動かなかった。
観ていた誰もが一瞬、戸惑う。
やはりこの魔物に「競争」という概念は通じなかったのか、とレイが思った次の瞬間。
地面が震え、風が巻き上がった。
スレイプニルが動いた。鋭く踏み込んだ蹄が土を裂き、凄まじい加速で草原を駆け出す。
風を切り裂き、雷鳴のような音を残して、一直線にサラを追い上げていく。
距離が一気に詰まる。
サラも負けじと体勢を低くしてスピードを上げるが、スレイプニルの迫力は圧倒的だった。
だが、サラの動きもまた人間離れしていた。
風を読んで跳び、滑るように草をかすめ、加速と制動を自在に操っている。
残り五十メル。
二人は肩を並べるようにして走り続け、互いの存在を意識しながら最後の力を振り絞った。
十メル、五メル――
そして、ゴールラインを駆け抜けた。
その瞬間、場に沈黙が走った。
どちらが先にゴールしたのか。
誰の目にも、それはわからなかった。
一拍遅れて、スレイプニルがふいに頭を上げる。
走り抜けた先で静かに立ち止まり、草を踏みしめる音だけが辺りに残る。
やがて、その場にいた全員が顔を見合わせた。
「今の…どっちだ?」
レイが呟いたそのとき、跳ねるような軽い足音が戻ってくる。
サラだった。ゴールラインの先から、ジャンプシューズで軽やかに跳ねながら走り戻ってきたのだ。
「ニャー、私の胸があと1セル小さかったら負けてたニャ!」
冗談めかしてそう言いながら、彼女は胸を両手で持ち上げてみせる。
「返事に困ることしないでください…」
レイはその言葉に赤くなりながら、照れくさそうに答えた。
フィオナは、笑みを浮かべながら、ゴールの感想を述べた。
「こちらからは後ろ姿しか見えなかったから、どっちが勝ったのか分からなかったからな」
そのやり取りの途中、セリアが急に指を差して声を上げた。
「それより、みんな、アレを見て!」
一同が彼女の指す方に目をやると、さっきまで鬱蒼と茂っていた森が、まるで誰かが通り道を切り開いたかのように左右に分かれ、新たな道が出現していた。
スレイプニルは無言のまま、その道の先を示すように立っていた。
レイたちを静かに見つめるその目は、どこか意志を持っているようにも見える。
「やはり、競争するのが正解だったようだな」
とフィオナが言うと、
「ええ、そうね。あの先には何があるのかしら」
セリアも興味深げに続けた。
「スゴいニャ、一瞬で道ができたニャ!」
「でも、他の冒険者パーティは何で誰もギルドに報告しないんですかね? なんか謎とか出るし、スレイプニルと競争するし、魔物も強かったし…」
レイは首をかしげながら呟く。
だが、レイにはまだ分かっていなかった。
この草原にたどり着くこと自体が、すでに並の冒険者では困難な道のりであるということを。
そして、スレイプニルに鼻差とはいえ勝てるほどの俊敏さを持つ者――それは、サラのような存在を置いて他にいないということも。
セリアが軽くため息をつき、腕を組んでレイに向き直った。
「レイ君。あなた、もう少し自覚しなさい」
そう言いながら、指を折って数え始める。
「まず、“迷いの森”を突破できたのは、アルが空間の歪みに気付いて進路を調整してくれたから。それがなければ、私たちだって森をさまよっていたわ。次に、あれだけの魔物を相手に全員が無事だったのは、このパーティがBランク相当の腕を持っていたから。そして極めつけは、スレイプニルに勝負を挑んで、サラが本当に勝ってしまったこと。しかも、胸……鼻差で」
セリアは真顔のまま続ける。
「普通のパーティじゃ、どれか一つでも足りてなかったのよ。つまり、レイ君が今ここに立っていられるのは、奇跡みたいな組み合わせに恵まれたからよ」
レイが小さく瞬きをしながら黙っていると、セリアは微笑みを浮かべた。
「だから、レイ君。あとで私と少し、冒険者の世界について勉強しましょう。ゆっくり、丁寧に」
そこへ、静かに声が割り込む。
「その役目なら、私が引き受けよう」
フィオナが落ち着いた口調で言い、レイを見つめて微笑んだ。
二人のやり取りを見て、サラが楽しげに笑いながら言った。
「二人で教えれば良いニャ!」
セリアとフィオナは、一瞬だけ視線を交わす。そして互いに微笑みながら、
「そうね」
「そうだな」
と声を揃えた。
「…抜け駆けなしだ」
「…分かったわ」
小さな声で交わされたその約束は、微妙な緊張を含みながらも、二人の間に確かな共通認識を生み出していた。
「さあ、それでは先に進もうか」
フィオナが号令をかける。
だがその時、レイはふと足を止めた。
周囲が、急に静かになったように感じたのだ。
「なんか、変な感じがするな…」
彼が呟くと、他のメンバーも周囲を見回し始める。
すると、スレイプニルが、再び静かに現れた。
その鋭い目は、まるでレイたちをずっと見守っていたかのように、真っ直ぐに向けられていた。
レイはふと目を合わせると、少し立ち止まり、自然と口を開いた。
「何だか…あのスレイプニルって、この草原にずっと一頭だけで過ごしてたんですよね」
その言葉に、仲間たちは一瞬歩みを止め、スレイプニルの姿を見つめた。
スレイプニルは変わらず静かに、ただ彼らを見返している。
レイがそっと問いかける。
「お前も来るか?」
スレイプニルは少し警戒したように体を固めた。
「ヒィン」
一度だけ短く鳴くが、それ以上動く気配はない。
「ちょっと待って、レイ君何をするつもり?」
セリアが驚きの声を上げた。
「レイ殿、相手はAランクの魔物なんだ。無茶をするな」
フィオナも警告する。
「有り得ニャいことをしてるニャ!」
サラも目を丸くし、驚きを隠せない様子だった。
それでも、レイはスレイプニルをじっと見つめながら、まるで危機感のない声で言う。
「そうですか? 何だか大人しいですよ、コイツ」
「レイ殿、危ないぞ!」
「レイ君、下がって!」
フィオナとセリアが、次々に警戒の声を上げる。
だがレイは「大丈夫ですって」と笑い、ゆっくりとスレイプニルに近づいていった。
スレイプニルはその場に立ち尽くし、じっとレイを見つめ続けている。
レイがそっと手を伸ばすと、スレイプニルは一瞬だけ身を引いた。
だが、その後――鼻先をレイの手に近づける。
そして少しずつ、警戒を解くように動きを止めた。
「…スレイプニルが、人に懐いた?…」
フィオナが驚きと感嘆を込めた声を漏らす。
「嘘でしょ? こんなことって…」
セリアも目を見開いたまま呟いた。
「ニャ…スゴいニャ!」
サラが感心したように言いながら、レイとスレイプニルの様子をじっと見つめる。
完全に心を許したわけではない。
だが、確かにこの瞬間、レイとスレイプニルの間に――
ごくわずかながら、信頼の芽が宿ったのだった。
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