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「なんでそんなに嫌がるんだよ」
兄の手のひらが篤史の頬を打つ。すぐにその手が篤史の顎を掴み、唇が唇のもとに迫ってくるから逃れる為に篤史は暴れた。さらに頬を打たれる。
「そんなに嫌か」
頬のあたりに水滴が降ってきて、それは兄の肌から滴った汗なのであろうと思ったが、
「あいつのことは受け入れたのにな。おまえのほうから望んだ」
その声が震えたことで篤史は改めて兄の目を見やり、水滴の正体が兄の目から零れ落ちたものであると知った。兄の目が濡れていた。
兄の涙をろくに見たことがないのに気づいた。いつだって冷静だったのだ、憤怒した時でさえ冷静だった。そんな兄の目から涙が湧き出しては粒となって零れ落ち、篤史の頬の上で弾けるのである。
「俺はずっとおまえだけを見ていたんだ」
声が掠れた。
「俺を見ろ。俺だけを」
兄の唇が迫る。
身代わりだったと兄は言った。崢は篤史の身代わりであったと。であるから崢はこの腕に抱かれ、海の匂いを嗅ぎながら、俺を見て、そんなことを言い、涙を零しさえしたのか。
「崢は兄ちゃんを」
手で兄の唇をはねのける。その手を掴まれる。あいつの名前を出すな、きっとそう言いたいのだ、兄の唇が篤史の唇を塞ぐ。
こびりつく、あの笑顔。兄にぴたりと身を寄せた、崢の。
「崢は兄ちゃんを」
目の近くを頬のあたりを首筋のあたりを流れるものが汗であるのか涙であるのかもう分からなかった。兄の唇から手から逃れる為に息を切らして暴れまわった。篤史の服は破れたようだ、兄の歯が食い込んできたのか、そこかしこに鋭い痛みが走り続けた。幾度も頬をぶたれたせいか口の中は血の味がして、もう戦意喪失だ、しかしながら聞こえてくるのは嗚咽を含んだあの言葉だった。
先生は海の匂いがした。
視界の隅に光るものがあった。縁側の近くに立て掛けてあるそれは素振りに使うバットだ、真っ向から西日を浴びてそれは強烈に光っていた。
手を伸ばしてそれを掴んだ。
「篤史」
兄の頭に思いきりそれを振り下ろした。




