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崢が被害届を出さずにいる理由――自分の手で決着をつけようという、どこまでも広がる憎悪か。あんたを後悔させてやる。結果として兄の一番大事にしているものなのであろう篤史、それは潰れた。しかしながらそこに現れたものは勝利の笑みでもなく、むしろそんなものはなく、崢は床にへたり込んで涙を零したのである。
桐原は息を吐くように嘘をつく。いつの日か兄はそう言った。しかしながら崢の涙に嘘はない、それだけははっきりと分かった。
「あいつに謝らないと」
「今さらだ」
「兄ちゃんとのことがなければあいつは野球を捨てずに済んだ。今も投げてたはずだ」
「あいつが決めたことだ」
吐き捨てるようにそう言って、
「ほら、練習だ、時間の無駄だ」
兄は篤史の腕を掴もうとする。その手から逃れた。
「うやむやにしたらいけない」
「終わったことだ」
「終わってない。崢の中では何も終わってない」
篤史の耳にこびりついて離れていくことのない、あの言葉。涙の混ざった、あの――
先生は海の匂いがした。
「終わったんだよ」
兄は言った。まさにあの写真に――ソフトクリームを片手に兄に身を寄せ、顔じゅうに笑みを広げた崢に唾を吐き捨てるものとなった。
自慢の兄は色褪せた。褪せたどころか腐って原形をとどめない。いや、知らなかっただけなのか、ベールの向こう側にあった兄の姿を。
「なんでそんな目で俺を見る」
兄の目に広がるものは暗がりか。出口の見えない闇か。
「兄ちゃんはいかれてる」
「そうだな、いかれてるんだろう。ずっとおまえだけを見ていた」
強気の言葉を発しながらもやはり身体は怯えていたのだ、篤史は後ずさっていた。その手が伸びてくれば身を翻して駆け出すもすぐに捕まり、もがいた結果居間の畳の上に突き飛ばされた。




