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崢の涙は見たことがなかった。だから初めて見る涙となった。きっと試合で負けたとしても、崢のことだ、泣いたことがないはずだ。それなのに今、崢は篤史の周りに広がる写真を見下ろし、そこにおさまった兄を見下ろして、涙を零しているのである。
波の音が聞こえた。ここまで波の音が聞こえてくるのか。それとも崢の目が、それをよこすのか。
「崢」
その名を呼んだ。突如として崢が俯きながら両手で顔を覆って、そのまま足を折り、へたり込むかのように床に座り込んだ。体育座りの形でそれぞれの膝にそれぞれの肘を乗せ、両手で顔を覆ったまま、何かを言った。
「先生は海の匂いがしたんだ」
そう聞こえた。
顔を覆った指と指の隙間をぬって涙の粒が零れ落ちてゆく。
崢に嫌われていたことにすら気づかなかった、要するにあまりにも鈍い、そんな篤史と言えどこの時ばかりは勘づくものがあった。言葉が口をついて出てきた。
「あいつは悪い男だ」
初めて兄をあいつと呼んだ。写真の中の兄が篤史の手の中でぐにゃりと歪んだ。
「人の気持ちを無視して追い込んでくる、教員としてあるまじき男だ」
あるまじき、なんて表現は初めて使った。脳内に流れゆくのは誰でもすぐに開けることのできる篤史の部屋の扉、それを一枚挟んだだけの空間を我が物にして篤史を――実の弟を押さえつけ、激しい情欲を毎夜のようにぶつけてくる、まさに崢の言う狂気の沙汰、そんな兄のさまであった。
「悪い男だ」
篤史は言った。声が震えないよう、喉を張って。しっかりと崢の耳に届ける為に。
届いていたわけである。
「知ってる」
崢はそう答えた。
床に長く伸びるものは崢の影である。西の空深くで太陽が燃えていた。両手で顔を覆った崢は嗚咽を上げ、きっともう止まらないのだ、打ち寄せるそれをひたすらに流し続けた。
「先生は海の匂いがしたんだ」
うわごとのように崢は呟いた。
「先生は海の匂いがした」




