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7

 兄にだけ言ったのだ。兄なら信じてくれると思った。篤史の手の中でボールは言うのだった。それは練習中であったり試合の只中であったり色々であったが、落ち着け、とか、俺がついてるぞ、とか、そんな類の言葉でボールは篤史を鼓舞してきた。子供の域を脱した頃からボールは妙におとなしくなったが、おまえは野球に選ばれたんだ、との兄の言葉がある限り、子供の頃に聞いたボールの声は確かに存在したものだったのだと、そう思えた。


 俺は野球に選ばれた。だからこその声だった。だとしたら、どうだろうか、目の前にいる、この飄々とした異名持ちの男もその声を聞いたか。


「ボールから声が聞こえたりする?」

 篤史は聞いていた。

「ん? なんて?」

 蚊でもいたのか手のひらで足を叩きつつ篤史の言葉を拾おうとする崢になおも篤史は言葉を飛ばす。

「だから、ボールから声。しっかり投げろとか、気を強く持てとか、そんな声がボールから聞こえたことあるかって聞いた」

 次第に声が小さくなっていったのは中学三年の男が口にすべき質問じゃないなと客観的に思ったからか。しかも真顔での質問だ。真剣そのものである。


 取り消そうにも一度発したものは戻らないし、それ以前の問題として崢はその質問をきちんと拾っていたようだった。意味を聞き返すまでもなく、しっかり取り込んでいたのだ、しばし篤史の目を見つめたのちに、ふっと笑った。

「ボールから声が聞こえるかって?」

 次第にその顔は実に可笑しそうに歪んでいき、

「俺は聞いたことないな。メルヘンの世界には縁がない」

 歯をむき出して笑った。


 まさにメルヘンであるから黙るしかなく黙ったのであるが、何にしても崢の耳にはボールの声が届くことはなかったようである。ボールの声が聞こえたことがないのだ、こいつはパチモンだ。目の前にいる男、変化球の魔王とやらを篤史は眺めた。こいつは所詮、兄の作品でしかない。兄に作られたピッチャーなのである。


「いつだったっけな。先生、言ってたよ」

 可笑しそうに笑うのをやめて崢が言う。先生や兄ちゃんとの単語が出るたびに篤史はその先の言葉を拾う為に崢の目を見つめる。


「俺の弟にはボールの声が聞こえるんだ、ってな。神の領域にいる奴だって言ってた」

 右肩のあたりを左手で揉みながらそう言って崢はゆるく笑った。


 神の領域か。兄はそんなことを言っていたのだ。おまえもそう思うか、と聞こうとして開きかけた口を閉じた。肯定されたとして何になる。代わりに言った。

「兄ちゃんて何でも喋るんだな」

「何でも喋るよ。おまえの話になると目尻が下がる」

 こんな感じにな。そう言って崢は自分の目尻に指を当ててそれを垂れさせて見せた。

「おまえのことが好き過ぎるんだよ」

 目尻から指を離すと崢はそう言って笑う。


 兄は篤史にいつも優しい。十五歳も離れている弟や、十七歳も離れている妹よりも、ずっと。明確な差があった。まさに弟が文句を垂れるほどの態度の差だ。母は長男を産んだのちに長年の不妊に陥ったという。その間、篤史の兄は弟の誕生を待ちわび続けていたようだ、そうして念願の弟が生まれるとまさに目に入れても痛くないかのごとく可愛がったそうである。ミルクを飲ませ、オムツを替え、絵本を読んでやっては頬ずりをした。篤史の誕生後には続けて二人が誕生したが、その頃になると兄は世話なるものに飽きていたのか、それとも何か理由でもあるのか、篤史の下の二人を大して可愛がることもなくひたすら篤史の手を取り、公園に出かけてはキャッチボールの真似事をしたり鬼ごっこをしてみたり、夜は一緒に風呂に入ったりひとつの布団で寝たりして、結果、ちい兄ちゃんはいいよな、とのちに篤史は弟からひんしゅくを買うこととなった。


 ちい兄ちゃんはいいよな。何十回、何百回と言われ続けてきた言葉だ、それが今、おまえはいいよな、の言葉に取って代わった。目の前で崢が静かに笑っている。続けて彼は何かを言った。よく聞こえなかった。愛されてるんだ、と聞こえた。


 聞き返そうとした。なに、と言おうとした篤史を遮るかのように崢の手が篤史の手元にやって来て、手、貸して、と言った。許可するまでもなく崢の右手は勝手に篤史の右手を掴み、手のひらを上にすると、

「この手で投げてるんだな」

 そう言った。そうして篤史の指にゆったりと自身の指を絡ませ、やがて手のひら同士をくっつけ合うようにして握り込んできた。


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